父親がくれた最高のギフトはモノでも思い出でも教育でもなく〇〇だった

 

娘が生まれ、父親になってから3年半が経つ。

 

その間僕は

アプリ事業で失敗

お金に困ってフリーランスプログラマーとして会社で勤務

ブログをはじめる

裸足プロブロガー目指して裸足の冒険開始

プログラマーやめる

半年経っても全然ブログで稼げず

横浜と千葉(かなり田舎)の2拠点生活開始

お金に困ってサイト制作の仕事をはじめる

2拠点生活の継続が困難になったので、家族で千葉の田舎へ引っ越し

貯金が完全に尽きる

サイト制作で最低限の生活費を稼ぎながら、ブログを書き続ける

という暮らしをしてきた。

 

2才の娘と奥さんを置いて1ヶ月単位で旅に出てしまうし、お金がなくならないと働かない。

お金がないから物は買ってあげられないし、出かけるっていっても海を見に行ったり山を登ったりするくらい。

たまに家族で行くスーパー銭湯が一番の楽しみだ。

 

今僕は42才。

親としてこれでいいのか?

という状況である。

 

そんな状況なのだけど、僕は心の中では「父親としてこれでいい!」と思っているところがある。

ある意味信念なのだけど、その信念を持つようになったのは父親からもらったるギフトのおかげだ。

それは物でもないし、経験でも教育でもないし、教えでもない。

 

「父親としての役割」

「父親としての自覚」

「父親としてのあるべき姿」

世間にはそんな父親としての「べき論」が山ほどある。

「イクメン」を良しとする風潮もある。

 

でも情報が多すぎるし、何が正しいのか分からないし、

自分なりに頑張っているのに批判されたりして、

 

「そんなあれこれゴチャゴチャきめ細やかなことはできないんじゃ〜!」

 

と思っているパパたちもいるはずだと思う。

 

今日はそんなパパたちのために僕の親父の話をしてみたい。

きっと考えるべきことがシンプルになり、子育てに向かい合う姿勢が楽になるはずだ。

ニートの息子を持った親父の葛藤

27才で会社員を辞め、人生の大迷走をしていた20代後半、僕はニートだった。

 

「夢をもう一度持ちたい!」と思って興味のあることを片っ端からやってみたがどれもうまくいかない

お金がなかったのでバイトをしてみたものの全然続かない

 

実家に寄生していた。

家にお金を入れることもなく、食事を食べさせてもらい、快適な布団で眠る。

心配する親からのプレッシャーがひしひしと伝わってくる。

早く家を出たい。

でも出られない。

自立できない自分が不甲斐なかった。

本棚にあった1冊の本の意味

そんなニート時代のある日、父親の本棚を見たことがあった。

 

父親はまったくもって読書家ではない。

新聞は読む人だったが、本を読んでいるのは見たことがない。

 

それでも数冊の本が本棚に並んでいた。

「株で儲ける方法」

 

「自分のお店を持つ」

 

「株式会社の作り方」

そんなノウハウ本の中に一冊、毛色の違う本があった。

 

「父親として息子にできること」

これを見た時、なんとも言えない気持ちになった。

 

「誰でも知っている有名な会社に入れ」

これが父と母の共通の望みだった。

その望みを叶えるため、僕に中学受験をさせ、中学から大学まで私立の一貫校を卒業させた。

 

いい学校に入って、いい大学を卒業させ、有名な会社に就職すること

これが僕の親世代の成功のシナリオだったから、

父親としてできること = 稼ぐこと = いい大学を卒業させること

だと信じて父親をやってきたに違いない。

 

しかし僕は誰でも知っているような有名企業には入らず、ベンチャー企業に入った。

そして4年後退職し、ニートになった。

 

本棚にあったあの「父親として息子にできること」はあの時の親父の気持ちを雄弁に語ってくれたように思う。

 

自分が「息子のために」やってきたことは本当に正しかったのか?

きっとそんな思いがあの頃の親父にはあったに違いない。

あの頃の親父に伝えたいこと

あの時はどん底だったから、あの本を見た時に親父の思いが垣間見えて絶句してしまった僕だが、

今は違う思いを持っている。

 

もしイムマシンがあるのなら、あの時の親父にこう伝えたい。

親父、あなたは仕事を通して僕に「あるもの」を与えてくれた。

 

それだけで十分だ。

 

ただあなたが与えてくれた「それ」ゆえにあなたの息子は迷走している。

 

それは必要なプロセスなんだ。

 

 

僕に何かしようとしなくていい。

 

それよりあなたにやってもらいたいことがある。

親父がくれた人生最大のギフト

僕の親父はオーディオ製造メーカーに勤めるサラリーマンだった。

僕が生まれた頃から海外に生産拠点の工場を作る仕事をしていた。

 

僕が5才になるまでは親父の仕事に家族でついていったので、僕は5歳までシンガポールで育った。

シンガポールにいた時の僕と親父

 

5才のときに日本に帰国してからも親父は海外へ渡り、工場を作り続けた。

僕と妹、そして母はその後は海外に一緒に行くことはなく、日本で過ごした。

親父は単身赴任。日本の僕らは母子家庭だった。

 

親父が帰ってくるのは1年に1回か2回。

僕と妹は親父が帰ってくるのを心待ちにしていた。

寂しかったからじゃない。楽しみだったからだ。

 

何が楽しみだったかって?

海外から持ってくるお土産?

それも楽しみだったけど、本当に楽しみだったものは違うものだ。

それは、

 

楽しそうに仕事の話をする親父の笑顔

これが何よりの楽しみだった。

・南米アマゾンに行った時の自然のスケールの話

 

・日本とは全然違う治安の話

 

・働くということの意識が全然違う中国人スタッフとの攻防戦の話

こういった話をキラキラした目で子供のように話す親父は本当に輝いていた。

小学生・中学生だった頃の僕は親父のそんな姿を見るのが好きだった。

 

親父から海外の仕事の話を聞くうちに僕の中にはある考えが形成されていった。

・海外はおもしろいに違いない

 

仕事はおもしろいに違いない!

 

僕はこの頃から「仕事」に興味を持ちはじめた。

人を笑顔にする「仕事」というものを自分がやるであろうが楽しみになった。

 

高校3年の時、はじめて仕事をした。

レストランのウエイターのバイト。

レストランという異世界での仕事は、仕事でありながら冒険だった。

 

・お店に来る人達の人間模様

 

・厨房の中で行われていること

 

・衛生問題のリアル

客として来ても分からないことが

仕事をすることで見える。

驚きと発見の連続だった。

はじめてバイトをした頃の僕。隣に写ってる学ランの子と一緒にバイトした。

 

大学3年になってはじまった就職活動

今まで人の話をいろいろ聞いてきたけど、就活の前向きな話をほとんど聞いたことがない。

 

でも僕は就活が楽しくて仕方なかった。

就活中の大学生だというだけで、普段は見られない会社の世界をのぞき放題

これはまちがいなく就活生だけに与えられた特権だ。

OB訪問からは働く人の本音が聞けるし、

会社説明会では各会社のカラーの違いが如実に出る。

 

最初は総合商社が面白そうだと思った。

しかし実際にOB訪問してみたら働いている人たちの顔色が冴えない

輝いている人と全然会えなかったので目指すのはやめた。

 

僕は「働く人達の顔」で就職先を探していた。

かつて僕が見た目をキラキラさせた親父の笑顔、

あんな笑顔で働く人達がたくさんいる会社で働きたいと思っていた。

そうして見つけた会社がベンチャー企業・プラザクリエイトだった。

 

この会社を見つけたとき「ここだ!」と思った。

その時点で就職活動はやめた。

1社だけ受けることにし、落ちたらその時考えようと思った。

 

結果は採用

僕の就職活動はあっという間に終わってしまった。

大学卒業式の時。卒業の喜びを全身で表現している



 

就職してから3年間は最高に幸せな3年間だった。

先輩・上司・同期に恵まれ、夢中で働いた。

写真屋のチェーン店本部で店長やオーナー店のコンサルなどをやった。

 

2年目に抱いた夢があった。

日本で一番「働くスタッフが幸せ」なチェーン店にしたい!

この夢を持ってから、仕事の苦しみもすべてチャレンジングな課題となり、仕事はますますおもしろいものとなった。

 

「仕事はおもしろいにちがいない!」

子供の頃に予想した未来は本当だった。

写真屋の店長をしていた時。熱心なスタッフに囲まれて最高に幸せだった。

 

しかし幸せな時間はずっとは続かなかった。

デジタルカメラが普及しはじめ、写真業界に暗雲が立ち込めていた。

3年目の終わりから大好きだった上司や先輩達が辞めはじめた。

笑顔が消えていく。

 

人がどんどん変わっていく社内はかつての輝きを失い、悲観的なムードがただよった。

僕は「日本で一番「働くスタッフが幸せ」なチェーン店にしたい!」という夢を見ていたから、会社を立て直したいと思って社内を横断的に動き回った。

その結果、社長と常務に注目され、会社立て直しのきっかけを作れそうな状況となったのだけど、大きな過ちを犯した。

天狗になってしまい、自分の功績をひけらかす鼻持ちならないやつになってしまったのだ。

 

その後の展開はあっという間だった。

周りの協力を得られなくなり、仕事は全然回らなくなり、躁うつを繰り返す日々の果てに会社を去ることとなった。

 

この時の経験は僕にこんな教訓を残した。

・自分一人がうまくいっても全然幸せじゃない

 

・みんなが幸せになってこそはじめて自分も幸せになれる

退職後、新たな夢を求めて旅していた頃

 

こうして僕は夢を探し求めるニートになり、あれから15年が経つ。

いろんなことをしているうちに、いつしかこんなぼんやりした夢を持つようになった。

「みんなが笑顔になれる世界を自分の周りだけでも作りたい!」

 

そのために何をしたらいいのか分からず、今でも思いつくままにいろいろやってみる日々が続いている。

楽しかったこともあったし、辛いことも多かった。

そんな僕のこの半生だが、意外と悪くなかったと思っている。

 

そのきっかけを作ってくれたのが親父だ。

あのキラキラした笑顔と楽しそうに話す姿が僕の人生を形作ったのだ。

 

少し前に「タイムマシンに乗ってあの時の親父に伝えたいこと」としてこう書いた。

親父、あなたは仕事を通して僕に「仕事の楽しさ」を教えてくれた。

 

それだけで十分だ。

 

ただあなたが与えてくれた「仕事の楽しさ」ゆえにあなたの息子は迷走している。

 

楽しいはずの仕事が楽しくならずに苦しんでいる。

 

それは必要なプロセスなんだ。

 

 

僕に何かしようとしなくていい。

 

それよりあなたにやってもらいたいことがある。

 

このメッセージはこう続く。

あれこれ考えず、自分の幸せのために生きてくれ。

 

「あなたが楽しそうに働く姿を見せること」

 

かつてあなたがやったことをもう一度やることが、ニートの息子の希望になる。

親父からもらったギフトが父親となった僕に教えてくれたこと

僕は思う。

子供が一番望んでいるのは両親の幸せなんじゃないか?と。

 

「親の幸せが自分の幸せに繋がる」

それが分かっているから子供は親の幸せを望むんだと思う。

 

親が幸せを感じてなくて、嫌々仕事をして、不満や怒りを抱えながら家に帰っていたらどうだろう?

冴えない表情の親の顔を子供は見ることになる。

どんなに良い物を与えられ、美味しいごちそうを食べさせてもらっても喜びは半減するんじゃないだろうか?

 

対して

親が自分の人生に熱中していて、不満や怒りとは無縁で生きていたらどうだろう?

親がキラキラしながら仕事していれば、自然と働くことに興味を持つだろうし、

親が楽しそうに趣味にいそしんでいれば、自然とその趣味に興味を持つ。

親が楽しそうに人と話していれば、自然と挨拶しコミュニケーションすることの楽しさを知る。

親が何かを与えようとしなくても、自然と子供は自発的に動き、生きる力を育むんじゃないだろうか?

 

親が輝くことこそ子供の「生きる力」を自然に育む最良の方法

これが親父がくれたギフトを通して僕が学んだことだ。

 

社会に漂うあるべき父親像?

そうなるためにやらなきゃいけないこと?

そんなことどうでもいい!

・・・とは思わないけど、

そんな大量の情報に混乱し、どうしたらいいか分からなくなるくらいだったら、

そんな規範や情報は一旦外に置いておいて、たった一つのことを見つめてみたらどうだろう?

 

「私は子供の前で輝いているだろうか?」



終わりに

僕が高校生の時、親父は海外に行くのをやめた。

子供2人を育ててきた母が「もう海外には行かないで欲しい」と言ったことがきっかけだったらしい。

 

あれから父は日本で仕事をし、数年経って早期退職した。

 

海外に出なくなってから親父はまるで輝かなくなった。

息子としてちょっと寂しく思う。

 

だからといって

「親父、もう一度輝いている姿を見せてくれよ!」

というのもなんか違う気がする。

親父の未来は親父が選択するべきことで、僕が押し付けるべきものでもない。

 

僕は社会的には不甲斐ない親父かもしれないが、娘に一生懸命生きる姿を見せ続けたい。

「生きるって簡単なことばかりじゃなかったけど、君と一緒にいられて超ハッピーだよ!」

と言い続けたい。

 

親父にもらったギフトを娘に贈る。

恩送りをすることこそ親父への恩返しなのだと僕は信じている。

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