プロフィール

経歴

生まれてすぐに父親の転勤によりシンガポールへ。5歳までシンガポールで育つ

5歳で帰国。埼玉県越谷市で大学卒業まで過ごす

父親はオーディオメーカーで海外の工場を作って回るサラリーマン。母親は専業主婦。4才下の妹がいる

中学生が終わるまではほぼ母子家庭。父親不在で一人で子供2人を育てるプレッシャーのあった母親はいつも不安定で、若干過干渉だった

「とにかく頭が大きくてずっしり重い子供だった」そうです

 

母親曰く、「この頃が一番かわいかった」

 

シンガポールのインターナショナル幼稚園にて。ここでの自由すぎる文化ゆえに、帰国後「彼はみんなと同じことができないんです」と幼稚園の先生に言われる

小学生時代

小学生時代は平和な小学校でのびのびと成長。低学年の時は勉強も運動もできない子供だったが、小学3年生で始めた父親とのジョギングから勉強も運動もできるようになりはじめる。

学校内ではちょっと変わり者で問題児気味。そのため教壇横に特別席を作られ、そこで授業を受けることが多かった。

4年生のとき僕をひどく問題視する先生が担任になった時があった。その時は教室の一番うしろの席で黒板に背を向ける形で座らさられ、机の上に鏡を置いて鏡越しで黒板を見ながら授業を受けたこともある。さすがにあれはやりすぎだと思う

おじいちゃんちで妹と。小学校に入る前からメガネをかけていて「メガネザル〜」とよくからかわれていた

 

9才の誕生日。絵に描いたようなのび太的風貌

中学・高校時代

中学受験をし、都内の中高大一貫教育校へ(明治大学付属の男子校)。当時はバブルの名残が残っていて、とんでもないお金持ちの同級生がいて、勉強もものすごくできる子達ばかりだった。クラスの子達は思春期だったが僕は小学校のノリを継続していたためものすごく浮く。「あいつ、ウザくね?」とクラスの面倒なやつに目をつけられ、軽いイジメも受ける

部活は最初バレーボール部。体罰があるような部に馴染めず1年でやめて、歴史研究部へ。そこで悪ノリしすぎて除名され中3からバスケ部へ。高校が終わるまでバスケに夢中だったが、チームプレーというものがさっぱりわからず未完の大器として高校卒業。今でもバスケはしているが相変わらず下手である

男子校だったので中学まではさっぱり女っ気はなかったが、高校では文化祭を期に色気づきはじめ、女子校の子たちと遊ぶことの楽しさを知る。部活の大事な局面で部活をサボり、ただでさえ低かったチーム内での信用は地に落ちた。この時はじめて信用の大切さを学んだ

中学入学の日、自宅で妹と

 

中3でバスケ部に入部。メガネからコンタクトレンズに

 

男子校ゆえにモテたくて仕方なかった高校時代。修学旅行 in 長崎

大学時代

明治大学では政治経済学部に入学。6年ぶりの共学でウェイウェイして過ごした。人生唯一のモテ期だったと思う。日本全国からいろんな人達が集まってくる大学は小さかった僕の世界を広げてくれた

2年間は全然勉強しなかったが、遊ぶのに飽きて3年から経済学をまともに勉強した。内容は今ではさっぱり覚えていないが、「お金を通して世界は一つにつながっている」これを意識できるようになったのは大きな収穫だった。「貨幣が統一され、国境がなくなれば地球はもっと平和で楽しくなる」そう思っていたのを覚えている

大学1年の頃はサークルでウェイウェイしていた

 

かなりガチの伝統ある経済学のゼミに入ったが、先生が一年病気療養だったため不在。変人ばかりで面白かった

就活

大学の先に何があるのかなど考えたこともなかったが、ある日同級生たちがどこかへゾロゾロ向かっていくので質問してみたところ、「就職説明会に行くんだよ」と言われ、「就職ってなに?」とは思ったものの面白そうなのでついていった。大講堂では大学を卒業し、銀行や商社など花形企業へ入社したOBたちの話を聞き「就職活動おもしろそう!」と思い就職活動開始。

最初は商社志望だったが、実際にOB訪問してみると、みんな全然輝いていなかった。「なんだ?全然様子が違うぞ?」と思って方向転換。大学の先生が「君たち!ベンチャーへ行ってみろ!」と言うので当時有名だったベンチャー企業の説明会に参加。「ベンチャーは面白い!」と思った

3つほど回ってみて、一番気に入ったのはその年に史上最年少上場をしていたプラザクリエイトという会社。「ここだけ受ける!」と決め、ひたすら「なんでもやります!入れてください!」と連呼したらあっさり内定。

同級生が就活をスタートしたと同時に僕だけ就活は終わってしまい、暇だったので割のよかったバイトで人稼ぎし、バイクを買い、そのあと免許を取って野宿バイクの旅をした(免許→バイク購入となっていないのは親対策。どうせ反対されるので先にバイクを買って唖然とさせる作戦)。旅人としての原点はここにあると思う。いまでも「旅 = 野宿」だと思ってしまうのが問題だ

【関連】
プロフィール(学生編)- 小学校入学から就職活動まで

サラリーマン時代

会社では店長業務や店舗の運営コンサルタントとして4年働いた。最初の2年は面白くて仕方なかった。先輩にも同僚にも上司にも後輩にも恵まれ、幸せなサラリーマン時代を送る。

しかし3年目で上司が変わり、つまらなくなる。ビジョンが小さい人の下で権限も与えられないサラリーマンほどツライものはないと感じた

つまらないので有給を猛烈に使い出す。結果を出しても自分の手柄にしてしまう上司のために働くのがバカバカしかった。週に3日だけ働き、4日は休むという変なサラリーマンになった。

しかし当時デジタルカメラが普及し始め、業界に暗雲がかかっており、現場の人たちは不安がっていた。彼らの声を聞くうちに「会社をなんとかしなきゃ!」と思い、会社内を横断的に動き回り危機的な状況をなんとかしようと奔走した

いろいろ動いた結果、最強の権限をもっている創業者に現場の状況が伝わっていないことが分かってきたので、社長に直接メールを書き、状況を伝えたところ、社長から全社メッセージが届く。「こういう現場の情報を上げろ」。結局これで一躍脚光を浴びた僕は一番悲惨だった九州南部の直営店を再建するべく九州へ転勤となった

しかし天狗となっていた僕はここでヘマをやらかす。九州の同僚たちを思い切り敵に回すような言動をしてしまい、同僚の協力を得られない状態になり、仕事も回らなくなり、ノイローゼ状態となった。九州名物の芋焼酎は今でも美味しいと思うが感傷的な味が味がする。

「自分ひとりではなにも成し遂げられない。人の協力があってはじめて自分は力を出せるのだ」。バスケではチームプレーがさっぱり分からなかった僕が今ではチームプレーをこよなく愛するのはこの時の経験があるからなのだと思う

結局ニッチもサッチもいかなくなり退社。ここから10年以上に渡る大迷走がはじまる。

写真屋のチェーン店でエリアマネージャーをしていた頃

何をやってもうまくいかず苦しかった20代後半の3年間

会社の仕事がすべてだった僕はやめて方向を見失った。新たな夢を求めてさまよい始める

辞めて九州から戻った時の貯金額は3万円だったが、興味のあることを片っ端からやっていった

退社後1年目

・九州1周バイクツーリング

・本州1周車中泊の旅

・農業体験(福島県相馬市)

・漁業体験(和歌山県太地町)

・離島で天然塩づくり(トカラ列島・小宝島)

旅をしていて、自然の中で暮らすのはいいなと思っていた時期

大学の後輩が紹介してくれた農家さんで農業したり、大学のサークルの仲間の実家でカツオ漁を教えてもらったり、会社員時代に店舗スタッフだった子が紹介してくれた離島で塩作りしている人のところに行ったりした

金がなかったけど、金がないなりのやり方で夢を見つけようとしてた

九州1周バイクツーリングの時。この旅が「旅 = 野宿」という思考の原点

退社後2年目

・【アルバイト】ビデオレンタルショップ

・【アルバイト】ガラケー販売ショップ

・【アルバイト】フレッシュネスバーガー

・俳優養成所でアメリカ式の演技メソッドを学ぶ

・ロサンゼルスに英語留学(2ヶ月)

最高に病んでいた時期

やりたいことも見つからず、バイトをしてもことごとく続かない。人間関係でもめてしまう。バイトに行くのが怖くて布団の中で泣いていたこともあった

おかげで金がない。100円が惜しくて喉がかわいているのに「買うべきか・買わざるべきか」と立ち尽くしていた思い出が今でも脳に焼き付いてる

自己顕示欲が強かったから「俳優になろう!」と突然思いたち、ちょっと変わった俳優養成所に参加。劇団にも入り、1回だけ即興劇に出た。即興の面白さを知った

結局この劇団内で再び人間関係でモメて追い出される

「こうなったらハリウッドだ!」と思い、親のスネをかじってロサンゼルスへ。シェアハウスでゲイの世界を垣間見て、世界は広いなぁと感じる。英語の学習は楽しかったが、モラトリアムな暮らしをしている日本の若者に嫌気がさして帰国

ハリウッド挑戦はできる気がせずやらなかったが、現地の日本語教室に突撃したり、公園にいたカポエラというブラジル武術のサークルに声をかけて一緒にやらせてもらったりして面白い日々ではあった

ロサンゼルス英語留学中。ルームメイトのハンガリー人と

退社後3年目

・脚本講座でシナリオを学ぶ

・【社員】大手のAV女優事務所(苦しくて1ヶ月で辞める)

・【アルバイト】ホテルの中華レストランでウエイター(品川)

はじめて長く続けられるバイトに出会った時期

それまで人間関係がうまくいかなかったのは志の高い人達の集まりじゃないからだと気がついた。それで「最高のサービスをしている場所はどこだ?」という視点で考えたら「ホテルだ!」と思い、配膳のバイトをやろうと思った

品川駅前のパシフィック東京というホテル内にあった「楼蘭」という中華の名店に入れた(今はホテル自体がない)

とても厳しく苦しい現場だったが、スタッフが苦しいながらも一生懸命やっている中で充実した仕事ができた

AVプロダクションの仕事はホテルのバイトをやる少し前にスポーツジムで出会った社長さんにスカウトされて入った。AVの制作現場にいる人達(女優 / 男優 / 監督 / 制作会社の人)の真剣さに感動したが、性が常に付きまとう環境には馴染めなかった

品川のホテルでウエイターをしていた頃

ホテルのバイトをしながらいろいろやった30代前半

・【アルバイト】ホテルオークラで宴会ウエイター

・【アルバイト】学生バスケのビデオ撮影・編集

・【個人事業】バイクメッセンジャー(自転車による軽荷物の配達)

・はじめてのブログ(絵日記 & 4コママンガ)

・英語学習(TOEIC795点まで到達)

・【アルバイト】横須賀米軍基地のフードコート

・米軍基地で日本語を教えるボランティア教室(アメリカ人の友人と)

ホテルのバイトをしながら1年単位でいろいろやっていた時期

品川の中華レストランでの仕事は充実していたが、あるとき親戚が亡くなり、葬式に行かなければならなかった。店長に休みをお願いしたところ「葬式なんか行ってる場合じゃないだろ!」と言われ、「こんな人と一緒に仕事をしてはいけない」と思い、仲間には申し訳なかったが辞めることにした

レストランはシフト制で時間の自由が効かない。宴会なら自由が効くと聞いていたので一番厳しいと噂のホテルオークラの宴会場へ

とんでもなく厳しかった。現場は昭和の職人気質な雰囲気が漂い、教え方を知らない人達ばかりだった。見て学ぶということを知ったのは大きかった

我慢して信用を獲得するまで頑張ったことで、2年ほどで職場内での安定した地位を獲得した

それにより「働きたい時だけ働く」というスタイルを確立。興味のあることに没頭できるようになった

最初にやったのは学生バスケの撮影のバイト。全国大会がある時期だけクルーが集まり試合を撮影する。試合後には監督やプレーヤーにインタビューし、大会が終わったらビデオ編集

バスケが大好きな人達との時間は楽しかった。死ぬほど下手だったバスケもこの時のおかげで少しマシになった。一番好きだったバイトは何か?と聞かれたらまちがいなくこのバスケのバイトだと思う

ホテルに通勤していた時に美しい女性が髪をなびかせながら颯爽と自転車で通り過ぎたことがあった

その時ロードバイクに興味を持ったが、どんな自転車を買ったらいいのか分からないし、どうやって東京を走ったらいいのかも分からなかった。それで「いっそ仕事にしてしまおう!」と思ったのがバイクメッセンジャーをはじめたきっかけ

毎日100km近く自転車を走らせ配達する。1年間ずっと毎日筋肉痛があり、「筋肉痛って筋肉が付けば消えるんじゃないの?」という疑問をずっと持ってた

このバイトで一緒に働いていた仲間が僕に進めてくれた本「人は食べなくても生きられる」は僕のその後の人生を変えた。人生何が起こるか分からない

はじめてブログをやったのもこの時期

子供の頃絵を描くのが好きだったから、また何か描いてみたいと思ってはじめた(今はもう残っていない)

この頃の生活を4コマ漫画にした。一生懸命見てくれる人はいたが、なかなか数が増えなかった。半年くらいでやめてしまった。続けていたらどうなっていただろう?とも思うけど、あの時は続けられなかったと思う

その後英語学習にハマった

duo瞬間英作文キクタンなどの進化した英語学習本に夢中になり、話せる感覚を実感しはじめた

もっと話したいとおもって言語交換(ランゲッジエクスチェンジ)をはじめた。ネイティブスキルの交換。ネットでパートナーを見つけて日本語で話したり、英語で話したりする

パートナーになったアメリカ人とマインクラフトというゲームをやりながらネット経由で英語で話した時は「英語学習の革命だ!」と思った。

「あれほど自然に英語が学べ、会話の内容に困らない方法があるだろうか?」と今でも思う

その後はそのアメリカ人のススメで米軍基地でバイトしたり、一緒に日本語教室をはじめたりした(そのアメリカ人は基地の原子力潜水艦の技師だった)

よくアメリカ人のパーティに呼ばれて行った。それまでとは全然違う世界だった。アメリカ人の自由な発想や寛大さ・フランクさに触れ、世界の多様性を感じた

【関連】
僕の英語学習史 – 振り返ってみたら英語学習は冒険だった!

この頃の写真は自分が写っているものが全然ない。唯一あったのがこれ。大晦日に甘酒もらって飲んでいる

震災を機にプログラマーに転身した30代後半

2011年3月の東関東大震災は被災地から遠い横浜にいた僕にも大きな影響を与えた

外国人が日本から脱出したことで、ホテルの仕事と米軍基地の仕事両方同時に失った。アパートのテレビの前で彼女とふたり、暗いニュースを見続ける2ヶ月を送った(30才の時、ホテルの仕事で同僚だった今の奥さんのアパートに転がり込み、ずっと一緒に暮らしていた)

ホテルの仕事に2ヶ月ぶりに呼ばれた時、仕事仲間からもらった職業訓練の案内チラシの中にアプリ開発講座というものを見つけ、月に10万円もらいながら勉強を始める。この学校はユニークすぎてハローワークや厚生労働省から査察という名のガサ入れが入るようになり、結局4ヶ月経ったある日「閉校」という張り紙が貼ってあり、プログラミングの基礎も分からない状態で放り出された

イカという名前の由来

ちなみにイカという名前はこの時ついた。職業訓練ではニックネームを付けるように言われ、4人1組で考えはじめた。2人まではあっさり決まった。しかし3人目が問題だった。インド人とのハーフの18才の子でずっと家に引きこもってた子だった。自己紹介ができない。何も話せない。時間だけが経っていく。

残り時間2分。さすがに本人もヤバイと思ったのか、一つだけ自己紹介データをくれた。

「ぼ、ぼく、カニが好きです!」

カニに決定するしかなかった。「じゃ、お前カニな!」と言うと「いやですよ!恥ずかしいですよ!」と急に自己主張を始める

「んなこと言ったって、俺の名前まだ決まってないんだぞ!?どうするんだよ!」

「恥ずかしいから他の名前にしてください!」

情報がないから変えようがない。すると突然ひらめいた

「じゃカニより恥ずかしい名前に俺がすればいいだろ?んー、じゃ俺はイカだ!これなら文句ないだろ!」

というわけで僕はイカになったのです。

しかし実際使いはじめてイカという名前のパワーにビックリした。誰でも一発で名前を覚えてくれる

それから僕はずっとアプリ開発者としてイカと名乗るようになった

「はじめまして、イカです」

この頃からコワーキングスペースに通い始める。コワーキングカンファレンスにも参加。ひげも生えはじめた時期

友人とゲーム制作をして食えるようになるも…

話が飛んでしまったので戻ろう

職業訓練校が4ヶ月目に突然閉校になり、僕はなんの技術もないままどうしようかと途方にくれていた

でもホテルの仕事はあいかわらずほとんどなかったので、アプリ開発で食う以外の選択肢がなかった僕はその後独学で学び、アプリを個人でリリースし、2作目「イロ呼吸」が思わぬヒットとなった

その後岐阜でアプリ開発者支援プログラムに参加。半年間ゲーム開発修行をし、横浜に戻った後はコワーキングスペースで友人とゲームを作るようになる

一緒に組んだ友人が素人ながら企画とゲームデザインの天才であることが判明し、次々とスマホゲーム部門でヒット作を作った。2人で会社化し、最後にはアプリマーケティング研究所という有名メディアから取材される

【取材された時の記事】
ブースト広告費も大きく回収、1,000万円稼いだ放置系アプリ「小学生あるある」の裏側

この頃いつもこんなカラフルな帽子をかぶっていた。ドラゴンボール展にて

しかしいい時はずっとは続かなかった

稼いだお金全部(2000万円ほど)と2年という時間をかけて大勝負をかけたゲームを友人4人と作ったが、見事に失敗しチームは解散した

解散後は「もう一度ひとりでアプリ開発をやってみよう!」と思って奮闘したが、稼ぐ能力が低いことを再認識するだけに終わった

みんなで作ったゲームの成功を信じて疑ってなかったし、お金に困らない暮らしを想像していただけに、事業失敗の精神的ダメージは大きくかなり病んだ

結局お金に困り、フリーランスとして渋谷のアプリ開発会社に参加。4ヶ月ほど高層ビルの最上階近くの見晴らしのいい場所で優雅にエンジニアライフを満喫し、僕のアプリ開発の歴史は幕を閉じた

【関連】
【アプリ開発5年の物語】現状を嘆く必要はない。変化は劇的に起こる

 

裸足ブロガー・イカ太郎の誕生

イカのアイコン

裸足ランニングとの出会い

アプリ開発者になって2年ほど経った時、1冊の本に出会う

「BORN TO RUN」 走るために生まれた ウルトラランナーVS人類最強の“走る民族”

この時僕は入院していた

スケボーで坂道を颯爽と下っていたら見事にバランスを崩し、右肩を骨折したのだ

どういうわけか友人が入院のお見舞いとしてこの本を持ってきてくれた(彼は読んでいない)

読んでいたら、裸足で走ってみたくてたまらなくなった。「人は食べなくても生きていける」を読んで以来の衝撃だった

結局骨折が完治するまで5ヶ月もかかり、金具を外す手術を終えた僕は「待ってました!」とばかり裸足で横浜みなとみらいに飛び出した

衝撃的な心地よさと毎日進化していく自分の身体の変化のとりこになった

ランニングが好きじゃなかった僕がランニング大好きになった

「シューズを履かなければ長距離ランは楽しい」

裸足ランニングをはじめた頃。裸足で走るのが恥ずかしくて、手にワラーチを持ってアピールしている

結婚を決め、裸足ランニングをしていなかった2年間

アプリで稼げるようになった時、結婚を決意した

10年一緒に彼女と暮らしていたが、ずっとお金に困っていたので決断できなかったが、

「収入のある時に決断しなければこの子(彼女)は子供を持つことなく一生を終えてしまう」

とずっと焦っていたから行くしかないと思った

一緒に組んでいる友人の才能のおかげで稼げているのであって、自分の力ではないと分かっていたから超不安だったけど迷いはなかった

朝起きたときすぐに彼女に言った

「結婚するか」

そんな感じの適当さでプロポーズし、2家族で食事会をし、籍だけ入れた

【関連】
恋愛に夢中になれる期間の大切さ – 恋愛談義を聞きながら思ったこと

結婚し、親になり、恋愛市場から抜けることで得られるもの

すぐに妊娠が分かり、子供が生まれた

この間の2年間は裸足ランニングをしていない

裸足ランニングを再開したのはゲーム事業の失敗が明白になって心のバランスを崩していたときだった

「裸足で走ろう」

病みまくっていたが、走るたびに心の中のゴミが落ちていった

ブッダの教えとの出会いも大きかった

裸足ランニングとこの本がこの時の僕を救ってくれたと言える

 反応しない練習

パパになった

裸足ランナーから裸足ブロガーに

裸足ブログをやろうと思ったのは、渋谷の高層ビルで働いていたときだった

快適極まりないオフィス環境なのだが、自然がないことにストレスを感じていた

お昼ご飯は食べずに毎日のように代々木公園の森林まで走っていって散歩してた

それでもストレスが溜まる

そしてある日、靴を脱いだ

我慢できなかった結果、なぜか渋谷の街で靴を脱いでしまったのだ

ものすごい自由を感じた

それまで人目を気にしてばかりいたことがバカバカしく思えた

「もう既存の枠内で生きていかなくていいんだ」

靴をはく人達の中で一人裸足になったことで自然とそう思えた

ブログをはじめたのは尊敬する裸足ランナーさんのブログに魅了されていたからなんだけど、この時の経験が「僕にも何か伝えられることがある!」そう思わせてくれた

こうしてこのブログは誕生したのです

【関連】
ぼくがブログを始めようと思ったわけ

裸足ランナーだけのトレイルマラソン大会・飯能ベアフットマラソン2017にて

 

裸足で四国お遍路に出発したとき

長い自己紹介でしたが、以上が僕のプロフィールです

追記:ブロガーになってから

裸足ブロガーとして食っていくと思っていたが、思ったようには伸びず2年で挫折。

その後10年間住んだ横浜から東京湾の反対側にある鋸山のある小さな町に縁あって引っ越しし、フリーランスとして稼ぐ道を2年ほど模索するもやはりうまくいかず。

そんな折に人から断食道場スタッフの仕事を紹介されスタートする。大好きな断食という趣味が仕事になるという経験から「好きが仕事になる」という幸福の凄さを実感するも自己顕示欲という我欲の壁に当たり半年で辞める羽目に。

それから半年、瞑想と読書だけの日々を送った結果、人生でやりたいと思っていたことすべてを捨てることで幸せになれることに気づく。

その頃友人に誘われて古い民家をDIYで修理するバイトを始める。ここで家を直すこと、DIYという新たな喜びを見つける。

ある日ある家のボロボロになっていたバイオハザードのようなドアをキレイに直した時、「家が喜んでいる…」という不思議な感覚を味わう。

「自分も物件を買って好きなように直したい!」と思い、格安で手に入る家を探し始める。

3ヶ月経ったある日何気なく寄った不動産屋で自宅から1分の場所にある小さな家を紹介される。奇跡的に自分の物件をゲット。

1年かけてコツコツ修理した結果なかなか素敵な空間の家になってきたので「ここは瞑想スペースとして開放しよう」と思い立つ。

現在もその家をコツコツDIYしながら瞑想と読書の日々を送る。

瞑想しに来たい人のためにひっそりと瞑想スペース「呼吸の家」を運営している。

お店ではなく、僕の瞑想スペースをシェアしているだけなので、話したい人・瞑想したい人・のんびりしたい人はいつでもウェルカムでございます。

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