娘との再会 – 一時帰宅した裸足お遍路20日目

 

こんばんは、イカ太郎です。

 

ただ今、夜中の1時。

さっき起きました。

こんなとこにいます。

 

家の近くの公園。

横浜に戻ってきました。

お遍路での野宿生活が長かったので、こういう場所に来ると落ち着きます。

土の上でアーシングしながら作業ができるしね。

 

虫の音が聞こえる。

時折通る車の音。

四国に帰ってきたみたい。

野宿生活のメリットは地球がおうち、そんな気持ちになれることかもしれません。

 

 

アーシングスポット計画

おとといの夜高知を高速バスで出発して、今朝東京に到着しました。

まず停車したのは新宿。

東京に帰ってきたけど全然ワクワクしなかった。

お遍路5日目に街の誘惑が僕をくるわしてしまうことはよく分かったし、土が露出している場所なんてほとんどないからアーシングできる場所もない。

今の僕にはもう魅力的な場所には見えません。

 

 

カラダが窒息しそうな街、それが今の僕にとっての東京。

東京エリアを離れ、自然の豊かな場所に家族で引っ越すかもしれないけど、これからの僕の人生の中では何度も東京に来るでしょう。

埼玉が実家だというのもあるし、千葉や横浜に大好きなコワーキングスペースがある。

僕の第2・第3の家のような場所。

 

そんな東京で僕が心地よく暮らすためには裸足でアーシングできることが必要。

僕だけじゃなく、東京で暮らす人たちにとってもアーシングできる街であること、裸足で過ごしやすいことが本当は大切。

まだアーシングが食事や呼吸と同じくらい人間の体にとって大切なことだということは常識として広がっていないけど。

 

そんな視点で東京を眺めていたら、ふとこんなことを思いつきました。

 

アーシングスポット計画。

昔は東京のどこでもタバコが吸えた。

路上喫煙、歩きタバコ、ポイ捨て。

今では信じられないかもしれないけど、かつての日本では電車の中、バスの中、駅のホームでさえも喫煙が可能だった。

そんな美しいとは言えない喫煙光景がこの東京という街にはありました。

でも分煙が進み、建物内での喫煙ができなくなり、喫煙スポットが設置されたことによって東京の喫煙マナーは大きく改善された。

タバコを吸える場所が減り、タバコの値段が上がったことで喫煙者自体も減った。

喫煙スポットという場所は東京の街が美しくなる上で必要だったのだと思います。

僕はあんな場所で吸いたいとは思わないけど。

心穏やかでいられる最高の場所で瞑想しながら僕はタバコを吸いたい。

 

アーシングスポットというアイデアもこの喫煙スポットと同じアイデア。

東京で生きる人たちがより快適に暮らす上で必要な場所。

アスファルトや靴によって地球から遮断され、体内に蓄積したストレス源である電気を地面に流せる場所。

人々が裸足になって楽になれる場所。

きっとそんな場所ができれば東京という街はもっと暮らしやすくなるに違いない。

公園や街路樹が都市には必要だったように、アーシングスポットもこれから必要になると思う。

 

東京駅の周りを裸足で歩いてみた

8時50分、東京駅鍛冶橋バスターミナル到着。

僕はバスを降りました。

すぐに自宅のある横浜に向かってもよかったのだけど、

この東京という場所が人間にとってどんな場所なのか、今の僕の視点で見てみたかったから少しウロウロしてみることにした。

 

結論から言うと、東京の中心部は思っていたよりどうしようもない場所ではなかった。

裸足になる人が増えてくれば、それほど息苦しい場所ではないかもしれない。

 

ビルの前の広場には地面の露出した場所があった。

バスの中で体内に溜まった電気を流すため、アーシングしてみた。

 

当たり前だけど、ちゃんとアーシングできた感覚があった。

周りの人もあんまり気にしてないようだった。

裸足の変なバックパッカーが土の上にいる。

そんな風に見えたに違いない。

バックパッカーってお得だな。

多少変なことをしても旅行者だからで済まされる。

 

東京でも窒息せずに生きられる。

 

そう確信した僕は明るい気持ちで家に帰ることにしました。

 

東京駅に向かう道は想像をはるかに超えて裸足にとって心地よい場所でした

 

 

裸足にさえなれば、東京は意外とイケル。

肌触りのいい清潔なタイルは気持ちをゆったりさせてくれたのです。

 

東京の歩道は意外とやさしい

電車の中でもそのまま裸足。

大きなバックパックを背負って京浜東北線に乗車。

すぐに電車は空いてガラガラになったんだけど、なんとなく座る気にはならなくて、ずっと窓の外を見ていました。

パックパックも背負ったまま。

全然重さは感じなかった。

むしろ地に足が付いている感覚があってパックパックの重さが心地いい。

 

窓の外に流れていく東京の景色。

僕は地面ばかり見ていました。

人が歩く場所を。

見ていて気づいたのだけど、東京の街の歩道は意外とアスファルトじゃない。

レンガのようなタイル状のものが多い。

あれなら足の裏にも優しいし、弱い誘電率だろうけど、アーシングも可能な気がしました。

千葉・房総半島の歩道も、徳島・高知の歩道もアスファルトばかりだったから、それに比べると東京の歩道は裸足向きだと思いました。

砂利を積んだトラックが通ることもあまりないから路面に砂利が落ちていることも少なそう。

東京にも良いところはある!

 

裸足のライフスタイルを発信する理由

僕がこうして裸足で暮らすことをせっせと発信しているのはなぜなのだろう?

裸足でいることが好きなだけなら発信もせずに一人で楽しんでいればいいのに、わざわざツイッターやブログでそのライフスタイルを発信している。

プログラマーは僕の天職ではないと思ったからスッパリとやめ、ほかの道で家族を養っていこうと思ったことも大きいし、自分が心から愛せることを仕事にしようと思ったことも大きい。

仕事を心から愛するためには、自分のやっていること一つ一つが社会の役に立っている、人の喜びを生んでいる、そんな感覚が必要になる。

仕事が人の喜びに繋がっていなければ、社会の役に立っていなければお金にはならない。

でも思い返してみると、仕事にしたいから、お金にしたいからという理由でツイッターもブログも始めたわけじゃなかった。

プログラマーをやっていた時にBORN TO RUNという本に出会い、裸足で走り始め、自分以外にも存在するであろう裸足ランナーと会ってみたいと思い、裸足ランニングのコミュニティに飛び込み、素晴らしい仲間と出会い、そこにはmanさんという裸足の求道者がいて、彼のツイッターブログから発せられるものすごい情熱を見て、僕にも何かできることがあるかもしれないと思った。

 

僕はただ流されてきただけなのだ。

気がついたら裸足が都市で生きる人たちをもっと幸せにできる。都市で暮らし続けてきて苦しかった僕のような人たちをもっと快適に暮らせる方法を提案できるというお節介な思いが生まれていた。

心から愛せることを仕事にしたいという思いと、他人のライフスタイルに一石を投じたいというお節介な気持ち。

それが僕が「裸足で生きる」というライフスタイルを発信し続ける理由なのだ。

 

LIVE BAREFOOT

「裸足で生きろ」というメッセージをこれからも発信していこうと、ガラガラの電車の中で裸足で窓の外を見ている変人は思っていたのだった。

 

娘との再会

自宅のある横浜に到着。

駅から自宅の間にある公園へ向かった。

ここが僕のホームグラウンド。

瞑想の場であり、オフィスでもあり、娘と遊ぶ場所。

いつもタバコを吸いながら瞑想するベンチに荷物を置いた。

土の感触、蝉の声、遠くで聞こえる車の音、飛行機の音、すべてが懐かしかった。

 

穏やかな気持ちを確認して荷物を背負った。

家に帰ろう。

 

僕は特に特別気負うこともなく、太陽の光の心地よさを感じながら、地面の熱を感じながら家に向かった。

途中にあるファミリーマートで豆腐と納豆を買った。

 

娘と会ったら笑顔でただいまと言い、ぎゅっと抱きしめ、パパからのおみやげを渡す。

そんなイメージをしながら歩いていたら家についた。

僕のうちは2階建て、4軒の世帯が住めるアパートの2階の奥だ。

階段を登り、廊下を歩いた。

廊下に面する僕の部屋の窓が空いていた。

中にも声が聞こえるはず。

 

「ただいま!」

 

僕は元気に言った。

中から声が聞こえた。奥さんの声だ。

「パパじゃない?」

 

ダダダダ!

娘の駆けてくる音が近づいてくる。

 

「パパ?」

戸惑うような優しい娘の声が玄関のドアの奥で聞こえた。

 

「チャイたん!」

僕は思わず大きな声で叫んでしまった。

 

ガチャ。

カギを開ける音のあと、そーっとドアが開いた。

 

2歳の小さな娘、僕のチャイたんがドアの奥に立っていた。

 

僕はドアを手で押さえてしゃがんだ。

娘の顔を目の前で見たかった。

天使のような優しい顔がそこにあった。

 

なんだかよく分からない強烈な感情が込み上げてきて、僕は泣き出してしまった。

嗚咽でうまく声が出せなかったが、なんとか声を出した。

「チャイたん…、ただいま…」

 

「パパ、あのね、、」

2歳の娘は淡々といろいろ喋っていたが何にも覚えていない。

「そうなんだ。そうなんだね」

娘の話に頷きながら、たった20日の間で驚くほどお喋りが上手になっていることにただただ驚いていた。

その成長を目の当たりにして余計に泣けてきた。

 

大きなバックパックを背負ったまま、僕はずっと娘の顔を見て泣き続け、抱きしめ、娘の話を聞き、頷き続けた。

その様子を奥さんが奥で見ていた。

奥さんが立っていることに気がついた僕は顔を上げた。

どんな顔をして立っているのだろう?

 

「おかえり」

奥さんが笑っていた。

2歳の娘の面倒を20日もひとりで見るのは大変だったろうし、収入になる仕事をやめて無職のままお遍路に行ってしまった旦那を笑って迎えるのはきっと複雑な思いだったに違いない。

情けないような申し訳ないような気持ちでいっぱいになった。

 

しばらく玄関で泣いていたらようやく落ち着いてきたので娘に言った。

「パパ、中に入ってもいいかな?」

娘は笑って後ろに下がり、おいでおいでと手を仰いだ。

 

 

お遍路に旅立ったわけ

旅の途中で出会った何人かに言われたことがありました。

「よく奥さんが許してくれたね」

「奥さんに本当に恵まれているよ」

「家庭を持っている普通の日本の男にはできないことを君はやっている」

 

たしかにその通りだと思います。

奥さんに恵まれたことも間違いないと思います。

でも奥さんもすんなり僕がお遍路に旅立つことを認めたわけではありませんでした。

 

僕は旅にずっと出たかった。

仕事を通じて世界の広さ、面白さを子供の頃にずっと伝えてくれた親父の影響があったから、いつか僕も世界を見てみたい、いろんな場所に行ってみたいという思いを持っていました。

でもサラリーマンをやめてからずっとお金を稼ぐことがうまくなくて、ずっと貧乏で、行動力もなかった。

お金がなきゃ旅ができない。

ずっとそう思ってた。

旅で使うお金だけではなく、その間に払い続ける家賃や通信費、税金、健康保険料、そういった諸々のお金のことを考えると稼ぐ力のなかった僕には旅に出る勇気は出せなかった。

でもそうして我慢しているうちに歳をとり、当時は同棲相手であり彼女であった奥さんが出産可能なギリギリの歳になっていて、意を決して結婚し、子供を作り、娘が生まれ、子育てに四苦八苦しているうちにさらに時間が過ぎた。

プログラマーとして友達と組んで作ったゲームで少し稼げるようになって安心したはずが、その後にかけた大勝負で大敗を喫して、儲けたお金はすっからかんになり、チームは解散し、再び一人でアプリを作ってみたもののまったく稼げず、生活のためにフリーランスのプログラマーとして会社に常駐して半年働いた。

お金は入ってきたが、生きている感覚は希薄で、風通しのいいとてもいい会社だったけど、高層ビルの上での仕事は息苦しかった。

 

もう限界だった。

自分の人生を生きている感覚がないことに耐えられなくなっていた。

 

奥さんが日本で娘と3人でいつも一緒に暮らすことを望んでいることは知っていた。

僕がフリーランスとして渋谷で常駐の仕事をしていた時も、会社まで1時間半以上かかる距離の遠さに不安を感じるし、不満であるという話もされていた。いつでもすぐに家に帰れる場所にいて欲しいと。

日本にいて、毎日ずっと一緒にいて欲しい。

それが彼女の望みなのだと思った。

だから僕が長い時間旅に出るなんてことは耐え難いことだったに違いない。

 

でも僕も限界だったから、最悪離婚になるかもしれないと思った。

娘を引き取ることも視野に入れていた。

無茶かもしれないけど、僕の行く先に彼女も連れて行く。

 

離婚をした場合に娘はどうなるのか知りたかったので、離婚した親を持つ子供へのインタビューをした「りこんのこども」という本や、「ひとり親でも子どもは健全に育ちます」と言った本を読んで情報を集めたりした。

 

そして奥さんに告げた。

旅に出ない人生が耐え難いこと、最悪離婚しなければいけないのかもしれないと思っていることを。

 

そんな脅迫めいた話をした結果、奥さんは渋々納得し、僕は強引にお遍路に旅立ったのだ。

 

お遍路で会えなかった時間が、奥さんと娘への愛情と、彼女たちの存在自体への感謝の気持ちを強くしてくれたことは間違いない。

会えない時間が愛を育むという、ちょっと鼻に付くセリフも実際にやってみたら一理あるように思った。

 

僕が旅に出たあと元気を失い、病気がちになっていた娘との時間をしっかり持って、彼女が安定したら僕はまたお遍路に戻るつもりだ。

なんとなくだが、1週間後くらいかと思っている。

そして10月末に戻ってきて、その後はフィリピンに行く予定になっている。

さらにそのあとは今回のお遍路で知り合った福岡のおっちゃんの工房がある姫路に行こうかと思っている。

 

お金はひたすら減っていってるけど、今はもう心配していない。

なくなってから考える。

先のことを心配して動けなかった過去があったから、もうそんな生き方を続けることには耐えられない。

先のことを考えて動けなくなるくらいなら、今のことだけ考えるべきだ。

 

僕の親父はずっと家にいなかった。

海外のいろんな場所でオーディオ機器の生産拠点を作る仕事をしていた。

1年に一回戻ってくるかどうか、それが僕の育った家庭だった。

おかげで不安に押しつぶされそうになっていた僕の母はヒステリーばかり起こしていた。

怖かった。

母親の顔色ばかり見ているうちに、人の顔色を見る習慣が染み付いた。

 

僕も親父のように家にいないことが多いオヤジになるのだろう。

でもオヤジとお袋の経験を無駄にはしたくない。

自分が経験してきた苦しみを娘には味合わせたくない。

自分の人生も家族の人生も最高にする。

 

そういうつもりで僕はこれからも旅を続けていくつもりだ。

 

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