死にたいと思ったことはあるだろうか。
僕はない。
でも死んでしまったらどんなに楽だろうと思ったことはある。
29歳の頃、新卒で入った会社をやめ、目標を失い、これから自分がどうやって生きていこうかまったく見えなかった時期があった。
どんなバイトさえ続かなくて、人間関係もうまくいかなくて、お金もなく、自分に自信が持てなかった。
バイトがある時は、わずかな力を振り絞って笑顔で働くが、帰ってきたら強烈な落ち込みがやってきて布団に入ったまま出られない。
家で寝ていても親からのプレッシャーを感じて、心は休まらなかった。
よく夜中に当てもなく歩いた。
お金もなかった。
その状況を打破できるアイデアもパワーも湧いてこなかった。
あの時が唯一「死んだらどんなに楽だろう」と僕が思った瞬間だ。
でも死ぬなんて勇気は微塵も湧かなかった。
きっと自殺できる人はさらにその奥まで進んでいて、行き切った時、死ぬための猛烈なエネルギーが湧いてくるのだと思う。
そうじゃなきゃ自殺なんて怖いことができるわけない。
自殺には勇気とエネルギーが必要なのだと知った。
目次
死をテーマに書こうと思ったわけ
この記事のテーマは突然頭の中に湧いてきたわけではない。
きっかけはプロブロガー・カルロスのこのツイートだった。
葬式に向かっています。正直な話、祖母が亡くなったと連絡を受けて、何も感じませんでした。
一方、感情を処理し切れず涙を貯め遠くを見る父を見て、そこには感情が揺らぎました。
遺体となった祖母を見て僕は何を感じるのでしょうか。不謹慎かもしれませんが、自分の感情が興味深いです。— カルロス🏉バリ島🇮🇩なう (@crls1031) 2017年8月9日
これを読んでピンときた過去の思い出があった。
おばあちゃんたちの死だった。
そしてカルロスにこんなメンションを送った。
すごくよくわかる。お年寄りが死ぬのは自然なこと、僕も冷静にそんな風に思っていた。
そして親を亡くした父親や母親がその後ウソみたいに性格が変わっていくのを見て、親が死ぬということはある種「子供への贈り物」なんじゃないかとさえ思った。 https://t.co/lCYqJYlixB
— イカ太郎👣裸足で旅するプログラマー (@ika_tarou) 2017年8月9日
このツイートに反応する人が現れた。
ギフトですよね。
仕事柄、人が家族をなくす場面によく立ち会いますが、誤解を恐れずに言いますと、ほんと親御さんは子供さんの為に亡
くなっていくなぁと思わざるを得ません。
親を思う子の心に勝ると云う親心。その結晶が『親の死』だと、今では確信しています。#親の死 #親心 https://t.co/y41kl8bghe— ボリショイ熊吉[縄文人] (@Be6DkaoXeQt4jF2) 2017年8月10日
1日経って瞑想していたら、ふと思った。
「人の死について書こう」
親父のおばあちゃんの死
おばあちゃんが亡くなったのは、ぼくが社会人になったばかりの5月だった。
うつ病による自殺。
親父は泣いたりしなかった。
仕事を終えた夕方、親父から電話が入った。
「おばあちゃんが亡くなった。今すぐ来てくれ。」
はじめての親類の死だった。
車で田舎に向かった。
仕事でよく通ってるはずの風景はいつもと違って見えた。
病院に着いておばあちゃんと対面した。
ただ眠っているだけに見えた。
「触ってあげてくれ」
親父がそう言った。
頰に触ってみると、おばあちゃんはすでにもう冷たくなっていた。
淡々と葬式に向けて動き始めた。
葬祭業者が手際よくお葬式の準備を進める。
お通夜もお葬式もあっという間に終わった。
正直言うとなにも覚えていない。
おばあちゃんが死んだということが実感できなかった。
親父はずっと固まっていた。
火葬場での会食で親父は挨拶したが、いつも通り堅苦しい挨拶を多少ぎこちなくこなしただけで、いつもの親父と変わらなかった。
家族よりも先祖が大事
親父は不思議な価値観を持った人だった。
「家族よりもご先祖様の方が大事だ」と言ってはばからない人だった。
家はもともと田舎の地主で、かつてはかなり裕福だったようだ。
戦後の農地改革で土地の多くを手放すこととなって、かなりの土地を失ってからは、小作人からの収入はなくなった。
おじいちゃんの収入で細々とやってきたようだが、親父が子供の頃はまだ多少の蓄えがあったようで、おぼっちゃまとして育ったのだと思う。
家には祭壇や氏神様とよばれる祠があり、それらの場所には毎日お供えをしていた。
お盆には立派な祭壇を作り、先祖をお迎えした。
お墓参りも大事なイベント。
先祖信仰のない僕からすると、ちょっとおかしいんじゃないかと思えるほど家族でお墓参りすることに固執した。
そんな親父がおばあちゃんの死を境に変わり始めた。
僕は子供の頃から「長男なんだから、跡取りなんだから」と繰り返し言われて過ごした。
ものすごく負担だった。
稼業があるわけでもないし、何をしたらいいのかよくわからないのに「ちゃんとしろ、ちゃんとしろ」と言われる。
とはいえ僕は素直な性格だから、親父の期待に応えられる息子になろうとずっと思っていた。
しかし会社をやめてフラフラしてからは、親父の期待に応えられる自分ではないことに苦悩した。
きっとおばあちゃんが生きていた頃だったら、どんなバイトも続かない僕にプレッシャーをかけ続けただろうと思う。
でもおばあちゃんが鬱で亡くなってからは、それほどプレッシャーはかけてこなくなった。
必要以上のプレッシャーをかけても僕が良くなるわけじゃないと分かったようだ。
おばあちゃんの死から親父は緩やかに変わっていったと思う。
おじいちゃんの死
親父がそれまでの価値観を捨てて劇的に変わったのはおじいちゃんの死からだった。
おじいちゃんはおばあちゃんの死後14年ほど生きた。
あまり食事は取らず、ガリガリだったが、病気になることもなく、健康だった。
毎日タバコを2箱ほど吸っていた。
それでも80歳以上生きた。
おじいちゃんは会うとよく言っていた。
「早くおばあちゃんに会いたい」
でも健康だったからなかなかその願いは叶わなかった。
おじいちゃんは猫との二人暮らしだった。
その猫は25年生きた。
おばあちゃんの死から14年経っても死ななかったおじいちゃんだったが、猫が亡くなった途端その後を追うように死んだ。
おじいちゃんが死んだ時も親父は変わらなかった。
おばあちゃんの時と同じように火葬場で淡々と挨拶した。
しかしここから親父は大きく変わり始めた。
「家族より先祖が大事」
そう言っていた親父が先祖代々の家を手放した。
理由は僕。
おじいちゃんが死んでからも家のメンテナンスをずっと続けて来たが、金銭的な負担が大きかった。
「自分が生きている間はいい」
「しかし自分が死んだ後、息子に家を維持できるだろうか?」
そう思ったらしい。
「きっと息子には無理だ」
そう思った親父は家を売ることを決断した。
親父はどんな思いであの大切な家を売ったのだろう。
どういう思いで家の中にあった多くの物品を処分したのだろう。
それを思うと少し胸が苦しくなる。
しかし、家を売った後の親父に後悔はなさそうだった。
自分で決めたこと。
息子のためにやったこと。
親父、ごめん。
そしてありがとう。
申し訳なかったけど、おかげで少し楽になりました。
母親と姉の死によって劇的に変わった母親
ここまでは親父の話をしてきたが、今度は両親の死によって変わった母親の話をしたい。
なので少し話を戻す。
親父のおばあちゃんが死んだ後、親類の死が次々にやって来た。
母親の姉である僕の叔母が死に、すぐに母親の母・僕のおばあちゃんが死んだ。
続いて父親の妹・僕の叔母が死に、母親の父・僕のおじいちゃんが死んだ。
あまりに続いたので葬式に慣れてしまった。
初めて親類の死に対面した時は「人は死ぬ」という事実に驚いた僕だが、
こう次々に死が続くと、「人の死というものは必ずやってくるもので、当たり前のことなのだ」と思うようになっていた。
世間体
母親は人の目が気になって仕方ない人だった。
「人にどう思われるか」
「世間がどう思うか」
そればかりを気にして、自分の考えを抑圧する人だった。
人から受けたネガティブな言葉もいつまでも引きずり、人から何か言われるたびに傷つき、落ち込み、よく寝込んでいた。
そんな母親だったから、僕とはよく衝突した。
母にとっては世間体がすべて。
世間体の良くない息子である僕は母親のプライドを傷つける存在だったのだ。
そんな母にとっては大学に入るまでの僕は自慢の息子だった。
しかし大学卒業後、大企業ではなく、ベンチャー企業に入ったことはショックだったらしい。
「なんであんな誰も知らないような会社に…」
何度もそう言われた。
僕は大学を卒業してからは優等生になれなかった。
親の期待に沿うような生き方はできなかったし、そんな能力もなかった。
僕は精一杯生きていたが、母親の求める息子になれなかった。
風変わりなことばかりする僕を見て、母は時には落ち込み、時には怒り出した。
実家に帰るとそんなことばかり。
言い争いになり、悲しい気持ちで実家を離れることが多かった。
多かったというより毎回そうだった。
呪縛
そんな母親が叔母とおばあちゃんの死後変わった。
僕の言うことにうなずくことが増えた。
「言ってることは分かるんだけどねー」
分かるけど、納得はできないらしい。
言動も大きく変わった。
表情も穏やかになり、どんなことにも集中できなかった母親が趣味を持つようになった。
編み物。
社交的であろうとして、いろんなコミュニティに入っては人間関係で傷つき、寝込んでばかりいた母親。
そんな母が輝き始めた。
小さいことであまりくよくよしなくなった。
本人の口からちゃんとは聞いてないが、母はおばあちゃんや叔母への恨みの言葉を吐いていたことがある。
きっと若い頃、いろいろなことがあったに違いない。
本当はそんな呪縛から逃れたかったのだろう。
でも逃れられなかった。
叔母とおばあちゃんの死はそんな呪いから母を解き放したように僕には見えた。
親がなくなるとはどういうことか
そんな一連の親類の死と、それによって変わっていく両親を見て、
人の死は一概に悪いことではない。時に残された者にとってのギフトになる
そう思うようになった。
残された者の生を輝かせる。
残された者たちが本当の自分に戻っていく。
人の死が死んだ本人にとっても周りにとっても悲しいことであることは間違いない。
でも別れは出会いの始まりなのだ。
親の死は本当の自分との出会いにもなりうる
少なくと今の僕はそう思っている。
死んだらどんなに楽だろうと思っていた僕を救ったモノ
この記事の冒頭で僕は「死んだらどんなに楽だろうと思ったことがある」と述べた。
あの時はあてもなく実家の近くをさまよった。
近くにヴィレッジバンガードというちょっと変わった本屋さんがあった。
そこに当時の僕を救った本があった。
普段なら自己啓発や世界旅行の本棚ばかり見ていた僕だったが、その時はあまりに無気力で、ただただ店内をうろついていた。
そんなとき、ある一冊の本が目に入った。
「屍体写真集」
導かれるままに手に取った。
一枚、また一枚とページをめくった。
無残に死んでいった人たちの写真が収められていた。
ページをめくる手が止められなかった。
そして奇妙にもどんどん癒されていく自分を感じていた。
最後のページを見終わり、本を置いた時、僕は少し気持ちが軽くなっていた。
僕はまだ死んじゃいない。
生きよう。
久しぶりに少し明るい気持ちで店をあとにした。
あとがき
今回はとても暗いテーマになってしまった。
書いている間、身内のリアルな話を書いていることに対して「本当にいいのだろうか」という思いがよぎった。
でも、今まさに「死んだらどんなに楽だろう」と思っているかつての自分と同じような人がこの世界には間違いなく存在する。
「生きようよ」
「自然に死ぬ日が来るまで、せっかくの命を燃やし尽くそうよ」
僕はこの話を通じてそう伝えたいと思った
僕のどん底はずっとは続かなかった。
母親の苦悩もずっとは続かなかった。
だからきっとあなたのどん底もずっとは続かないはず。
僕はそう思う。
何かをきっかけにそのどん底をはい出すことがあると思う。
それは1冊の本かもしれないし、親の死かもしれない。
今はまったく予想がつかないけれど、驚くほど意外なきっかけでどん底を抜け出すことができると僕は思います。
希望を持てとは言わない。
むしろ希望なんて持たない方がいい。
希望を持つから苦しみが生まれる。
何かを求めるから苦しみが生まれる。
この記事がかつての自分に届きますように。
かつての自分に似た境遇にある人たちに届きますように。
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もうわかると思いますが、僕を救った本です。あれから一度も手に取ってないけど、感謝の気持ちでいっぱいです。発行した人はどんな思いでこの本を出版したんだろう。そんな思いが頭をよぎります。とにかく出版してくれてありがとうございました。
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