僕が生まれてから35歳でアプリ開発者になるまでの話

 

イカ太郎

こんにちは、イカ太郎です

 

この記事は今のプロフィール記事ができるまでプロフィール記事として使っていたものです。

 

まだスッキリ書くことができなかった頃に書いたものだから、現在のものよりエモみが強めです。

当時すでに41歳だったのに35才までの話で終わっているのは、長すぎて疲れ果て最後まで書ききれなかったから。

これはこれでおもしろいので残しております。

まずは現在のプロフィールを読んで、万が一「もっとエモいやつを!」と思ったなら読んでみてください。

 

 

幼少期から学生時代まで

子供の頃からずっと周りから少し浮いていた。

5歳までシンガポールで育ったからかもしれない。

子供時代は絵を描くのが得意な子供で、中学・高校では下手くそなのにバスケに夢中だった。

大学では2年まで適当に遊んで暮らす。

しかしそんな生活に嫌気が差し、大学3年以降は結構真面目に経済学を勉強した。

が、今では何も覚えていない。

経済学から唯一学んだことは「世界は繋がっている」ということ。

 

就職活動

就職活動では「ここに行こう」と一社を決め、そこだけにエントリーした。

プラザクリエイトという前年に上場した写真屋の全国チェーンを運営する会社。

まだまだベンチャー気質の残った200人ほどの会社だった。

面接では「何にも取り柄はありませんが、なんでもします」とだけ言いつづけた。

そうしたら不思議と決まってしまった。

 

サラリーマン時代

サラリーマン生活は最高だった。

最高の先輩と上司に恵まれ、夢中で働いた。

北関東エリアの店長兼マネージャーとして、常時20店舗ほどの直営店をアルバイトのスタッフと共に運営した。

 

4年目にそれまでの実績を買われ、福岡に転勤。

「九州の南半分の直営店が壊滅的だから、鹿児島に一人で住んで立て直してくれ」

そんな隠れた使命を会社の常務に伝えられ、俄然やる気を出したが、常務と九州の統括との間で話が合わず、結局福岡に住んだ。

九州の統括は自分の部下の単独プレーは許さない人だった。

 

結局そこで僕はノイローゼになり半年で会社を去ることとなった。

「日本で一番アルバイトしたいチェーン店にする」という夢を持った仕事を心から愛していた28歳の僕は目指すものを失った。

 

長い長い根無し草時代

始まり

そこから根無し草の暮らしが始まった。

まずは旅に出た。

バイクで吸収を一回りしてみたり、車中泊で四国と本州をぐるりと回った。

 

その後は友達のつてで漁師のお手伝いをしたり、農業のお手伝いをしたり、鹿児島の小さな離島で天然塩を作ったりした。

本州・四国の旅から戻ってからは色々なアルバイトをした。

ハンバーガー屋、携帯ショップ、ビデオレンタル。

どれも長く続かなかった。

 

とにかくお金がなかった。

ある夏の暑い日、自販機の前で立ち尽くしていたことがある。当時110円だった飲み物代を出すか出さないかずっと迷っていた。

今思えばこの頃がどん底だった。

たくさんの店舗を運営していたかつての店長(僕)はどんなお店でもちゃんと働けなかった。

むしろやる気がありすぎて、周りから煙たがられていた。

そして人間関係をこじらせ辞めることが続いていた。

 

どん底

心療内科には行かなかったが確実に鬱だった。

実家の布団に入ったまま丸い一日出てこれないことが多かった。

真っ暗な昼間の部屋で死んだように眠り続ける僕に父親が声をかけた。

「そんな心の弱いことでどうする」

なんの励ましにもならなかった。

 

ホテルでのバイト

お金がなくどうにも苦しいのでホテルのレストランでのバイトを始めた。

時給が良かったのと、ホテルというサービス業の頂点ともいえる場所なら、「どんなに志が高くとも煙たがられることはないだろう」と考えたのだ。

この考えは正解だった。

ホテルには高い志を持って働いている人が多かったのだ。

 

久しぶりに働くことの喜びを感じた。

バイト仲間との連帯感も最高だった。

レストランでお客さんと話すことも楽しかった。

いろんな人の持つ世界に触れることができる。

 

そんなアルバイトだったが、1年ほどで辞めることになった。

ある時身内で不幸があって、店長に休ませてくれと相談した。

人がいつもギリギリだったので、「休めるわけねぇだろ!」と一喝された。

その瞬間辞めることに決めた。

仲間との別れは辛かったが、人が死んでも休ませてくれない職場のために働くのはもう嫌だった。

 

本当はまたレストランの仕事をやりたかったが、レストランは基本的にシフト制。

時間の融通がきかないので、ホテルの宴会場での仕事を次の仕事とした。

伝統ある虎ノ門にある名門ホテル。

 

キツかった。

お客さんとのコミュニケーションはほとんどなく、ただただ宴会会場を作り、料理を運び、皿を片付ける。

職人気質で、基本的に何も教えない職場環境。

それなのに知らないということが許されない。

管理者も働く人たちにも余裕がなかった。

しかし、お金のない暮らしに戻るのは嫌だった。

なんとかその仕事にしがみついた。

 

そうやって3年ほど働くと仕事にも慣れ、信用が付いてきた。

プロ意識のかけらもないのに、どういうわけか重要な仕事を任されることも多かった。

そうなると時間の自由がどんどん効くようになった。

好きな時に好きなだけ働ける。

何か他のことをしたい時、働きたくない時は長期の休みを取った。

その頃からホテルの配膳の仕事をしながら他の仕事もするというスタイルになった。

 

ホテルのバイト+αの生活

学生バスケのビデオ撮影・編集

自分の好きなことを仕事にしようと思っていた。

まずやったのは学生バスケの試合を撮影して編集するアルバイト。

バスケが好きだったから。

他の撮影スタッフとはうまくやれなかったが、全国大会で上手な選手のプレーを見て、インタビューすることは最高に楽しかった。

会社のある秋田に何度も下道で丸一日かけて車で行って(700kmほどの道のり)、泊まり込んでビデオ編集も学んだ。

 

バイクメッセンジャー

他にも変わった仕事をした。

ある時ホテルの仕事から帰る時、美しい姿でロードバイクの自転車に乗る女性を見かけた。

ロードバイクに興味を持った。

しかしどんな自転車を買ったらいいのか、どんな風に走ったらいいのか見当もつかなかったので、「いっそ仕事にしながら学んでしまおう」と思った。

そして当時都内の一部で展開されつつあったバイクメッセンジャーという自転車で書類などを届ける仕事を見つけた。

自転車で小さな荷物を運んでくれるサービスだ。

 

肉体的に本当にキツイ仕事だった。

毎日100km近い距離を自転車で走る。

2kmから10kmほどの距離を一日に何度も全力で走る。

夏場や冬の寒い日、坂道の多い港区の配達の時は本当に大変だった。

収入も本当に少なかった。

僕はへなちょこライダーだったので、時給にしたら800円ほどだった。

 

しかしここで出会った人たちは自分の好きなことでのびのびと生きている人たちが多かった。

いろんなライフスタイルを持ち、自然な姿で生きているという印象があり、それまでガチガチだった僕の仕事観を大きく変えた。

1年ほど経って、自転車について知りたいことは十分知ったと思ってメッセンジャーの仕事を終えた。

 

英語学習

そのあとにハマったのは英語の勉強だ。

大学2年の時に勢いで英会話スクールに入会して英語で話すことが好きになった。

社会人になってからずっと英語の勉強はしていなかったけど、中途半端なこの状態をもう少し引き上げたいと思った。

 

ホテルのバイトを1ヶ月ほど中止し、ひたすら独学で学んだ。

お金がなかったからスクールには行かず、書籍を買ってみたり、ネットの学習素材を使ったりした。

 

英語学習がネットによって激変していて驚いた。

少し語彙力に自信がついた頃、再び誰かと英語で話したくなった。

そしてランゲッジエクスチェンジというものがあることを知った。

ネットで英語を学びたい人と日本語を学びたい人を結びつける仕組み。

 

そこで出会った横須賀の米軍基地で働く原子力潜水艦のエンジニアと仲良くなった。

週に2回、45分は日本語・45分は英語で話す。

彼はゲームが好きで当時リリースされたばかりのマインクラフトとうPCゲームにハマっていた。

別々のPCからマインクラフトの世界に入り、スカイプで話しながら英語を学んだりした。

一緒に穴を掘ったり、建物を作ったり、冒険したり。とても楽しかった。

 

米軍基地でのアルバイト

英語で話すことが楽しくなってくると週に2回では物足りなくなった。

ランゲッジエクスチェンジの彼に相談すると「米軍基地内に日本人のためのアルバイトがあるよ?」と言われた。

日本の中のアメリカでのバイト。

久しぶりにワクワクした。

 

やってみると凄惨な現場だった。

フードコートの中華系ファストフード店のスタッフの仕事。

接客し、材料を仕込み、鍋を振る。

 

たくさんいたフィリピン人のスタッフは面白い人が多かったが、日本人のスタッフとウマが合わなかった。

現場の責任者も最悪だった。

元軍人。

サービス業のことなんかこれっぽっちも知らないおっさんが好き勝手言ってくる。

現場はいつも混乱していた。

フィリピン人達はそんな中でも楽しそうに暮らしていたが、日本人のモチベーションは異様に低かった。

そこでは1年半ほど働いた。

 

ボランティア日本語教室

少し経った頃、ランゲッジエクスチェンジの彼がボランティアの日本語教室を始めようと言い出した。

面白そうだと思った。

毎週一回、基地内の施設で講座を開くようになった。

毎回カリキュラムを考え、彼がメインの講師となり、僕が日本語のニュアンスを伝えるサポートをする。

 

たくさんのアメリカ人と話した。仲良くなった。

基地内のアメリカ人は粗雑な人が多かったが、日本語を自発的に学びにやってくる人たちはとてもいい人が多かった。

 

東日本大震災とiPhoneアプリ開発との出会い

そんな暮らしを続けていたある日、あの東関東大震災が起こった。

日本から多くの外国人がいなくなった。

その結果、僕の生活を支えていたホテルの配膳の仕事も、基地でのバイトも消え去った。

外国人がいなければ仕事はない。

 

横浜で同棲していた彼女と毎日テレビの前で呆然としていた。

お金だけが減っていった。

2ヶ月くらいして、久しぶりにホテルの仕事が入った。

仕事仲間との久しぶりの再会。みんな生活に困っていた。

 

そんな中、あるスタッフがいいことを教えてくれた。

彼女は毎月10万円を支給されながら何かを学ぶことができるハローワークの職業訓練というものを教えてくれたのだ。

 

パンフレットを受け取った。

正直全く期待していなかった。

どうせ興味のある講座などあるはずもない。

 

実際開いてみるとほとんど興味のないコースしかなかった。

しかしあるページを開いた時に目が釘付けになった。

iPhoneアプリ開発講座。

アプリ作りが学べるだと!?

 

どうしてiPhoneアプリ開発だったのか

どうしてそれに興味を持ったかというと、ぼんやりと「アプリが作れたらいいなぁ」と思っていたからだ。

先ほど米軍基地内で日本語教室をやっていたと言ったが、その講座を開くうちに「アプリが作れたらもっといい講座にできるだろうな」と思っていたのだ。

 

アメリカ人は英語が話せるので、第二外国語を学んだことのある人は少ない。

だから言語を学ぶ上で辞書があったほうがいいことさえ知らず、仕事の後の夜の講座だから、手ぶらでくる人も多かった。

毎回紙で資料を作っていたのだけれど、毎回紙で資料を作るのは大変だった。

しかも復習する人はほとんどいないから、1週間経つと学んだことをすっかり忘れている。

 

そんな時に目に入ってきたのが、ほとんど全員が持っていたiPhoneだった。

当時、日本ではガラケーの時代。

しかし、米軍基地に住む彼らはiPhoneを持っていた。

日本のガラケーはアメリカ人には合わなかったのだろうと思う。

感覚的には90%以上の受講者がiPhoneだった。

「もしあれに教材を入れることができれば、資料作りはしなくていいし、復習もしやすいだろう」と思った。

 

職業訓練の応募の締め切りは翌日だった。

急いで申請し、晴れて通えることになった。

 

職業訓練とプログラミング

プログラミングを学ぶのは難しかった。

講師は分かって当然だという感じで話してくるのだが、あらゆるプログラミングの概念が分からない。

挫折しそうになったが、僕にはiPhoneアプリを作れるようになること以外の希望はなかった。

だから学校が終わった後も本屋に行って書籍を買って、独学で学び始めた。

 

その学校は変な学校で、プログラミング半分、自己啓発ワーク的なことを半分やるスクールだった。

自己啓発的なことをやるのは理由があった。

校長の話ではプログラマーの多くはプログラミングはできるが、コミュニケーション能力が低いそうだ。

発注者に自分の考えをうまく伝えられずに困り果て、自殺するケースが多いらしい。

せっかくプログラミングを学んでも自殺に繋がるのでは仕方ない。

そう思って自己啓発プログラムも取り入れたらしい。

 

意外にも自己啓発ワークは面白かった。

しかしそれらの講座はハローワークや厚生労働省に伝えていないプログラムだった。

プログラミングを学びたいのに、自己啓発ワークをやらされることにストレスを感じた受講生が不満を持つようになった。

そしてハローワークに苦情を言ったことをきっかけに展開が荒れ始めた。

 

定期的にハローワークから視察が訪れるようになり、その度に講義はストップする。

スクールにはハローワークからのお金は払われず、結局4ヶ月でその会社は一方的にスクールを閉鎖した。

全然iPhoneアプリは作れるようになっていないのに、途中で放り出された。

月に10万円の収入もなくなった。

 

途方にくれたが、僕にはiPhoneアプリを作れるようになること以外は何も思いつかなかった。

幸い僕には受講生という仲間がいた。

ハプニングが続くスクールの中で、彼らとの絆が強くなっていた。

スクール終了後も彼らと学び続けた。

 

そして僕はついに拙いながらも1本の日本語学習アプリを個人でリリースした。

しかし当然収入はなかった。

日本語のボランティアスクールでそのアプリを使った。

受講者の反応は良かった。

彼らのためだけにカスタマイズされたアプリ、悪いわけがない。

 

岐阜へ

ひたすらアプリの改善を進めていたある日、職業訓練の仲間から連絡があった。

岐阜で1ヶ月泊まり込みでアプリ作りを学べるコースがあることを教えてもらった。

迷いはなかった。

行くしかない。

 

一緒に住んでいた彼女を説得し、単身で岐阜に向かった。

そこでは簡単なゲーム作りを教わった。

そこでゲーム演出を作るツールを教えてもらった時、僕の中でスイッチが入った。

「これを使って何か作りたい」

 

当時僕は色に興味があった。

色弱なのもあり、色音痴で、色彩の組み合わせに自信がなかった。

美しいアプリのインターフェイスを作りたいのに、とんでもない色の組み合わせになってしまう。

 

本屋に行き、色の組み合わせについての本を見て回った。

すると色には感情とリンクする意味があることを知った。

例えば赤は性欲を掻き立てたり、オレンジは好奇心を掻き立てたりする。

 

それが面白かったので、色から自分の感情を知るゲームを作った。

美しさに魅了されていたパーティクルという演出を盛り込んだ変なアプリだった。

当然知り合い以外には全くダウンロードされなかった。

 

奇跡、そしてアプリ開発者に

岐阜から戻ったある日、職業訓練の講師だった人から連絡があった。

彼女は当時ペットの犬を亡くしてペットロス症候群になり、過呼吸に苦しんでいた。

そんな折に僕のアプリをやったところ、過呼吸が収まったというのだ。

「それなら、ゲームではなく、呼吸に特化したアプリを作ろう」

 

そう思って作ったのが「イロ呼吸」というアプリだった。

リリースしてしばらく経って信じられないことが起こった。

突然ダウンロードされだしたのだ。それも大量に。

「何が起こっているのだ!?」と思って調べてみるとApp Bankの記事に掲載されていた。

 

今でこそ多くのアプリメディアがあるが、当時はApp Bankは最強のアプリメディアだった。

アプリランキングはぐんぐん上がり、健康部門アプリの上位に食い込んだ。

驚くべき出来事だった。

しかし、収入はなかった。

収益化する方法を知らなかった。

とはいえ多くの人がダウンロードするので、たくさんのレビューがApp Storeに来る。

まだまだ不出来なアプリだったので、要望に応えられる部分をアップデートし続けた。

ホテルのバイトも少しずつ入るようになり、僕はアプリ半分、ホテル半分という生活になった。

そうして僕はアプリ開発者になった。

 

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