僕は40歳で0歳になった – 頑張る教からの脱会

 

子供の頃から浮いていた。

生まれてすぐに家族でシンガポールに引っ越し、5歳まで日本とは違う世界でのびのびと育ったからかもしれない。

もう40歳を過ぎたけど、思い返すと新しい場所へ行くたびに浮いている自分を感じてた。

 

今なんて裸足で暮らしてるからめちゃくちゃ浮いてる。

この間フィリピンの小さな島に行った時、その島の最果ての地には裸足で暮らしている人たちがいたけど、

それ以外の土地で裸足で暮らしている人なんて見たことない。

 

元旦だった昨日、ちょっと変わった投稿をした。

弱いメンタルとどう向き合うか – 2018年の元旦に思ったこと

 

自分の弱さを前面に出したタイトル。

 

日本だと男は強さを要求される。

他の国の文化は分からないけど、日本では少なくともそうだ。

だから弱音を吐くことはあまりいいことだとは思われない。

全ての人がそうではないと思うけど、大多数の人は

泣くな、弱音を吐くな

頑張れ

そう言われて育ち、子供だからその教えを素直に取り込む。

泣かないこと、弱音を吐かないことを常識として持っている人たちの中で“頑張って”生きることを強制される。

でもその結果、日本は世界で3番目に自殺者の多い国となり、ここ10年くらい「生きづらさ」というキーワードをテレビやweb、書籍などで見かけるようになった。

僕はこの現象は、日本の中に当たり前のように溶け込んでいる「頑張るというある種の宗教に原因があるように感じてる。

 

苦しくても頑張る。

方向性が見えなくても頑張る。

元気が出なくても頑張る。

 

頑張ることは正しいこと

少なくない人たちがそう信じて生きてると思う。

だから頑張らない人を見てイライラしたり、中には怒りだす人さえいる。

頑張らずにうまくいっている人を見れば嫉妬する。

 

頑張る教は宗教だから、信じていることは個人の自由だと思う。

別に悪いことでもなんでもない。

僕だって頑張る教の中で生きてきたから、頑張ること・努力することにはある種の美しさを感じる。

でも頑張ってもうまくいかない人に「頑張れ」って言うことには違和感を覚えてしまう。

「頑張ってもうまくいかない人にさらに頑張らせてどうするのだ」と、そう思う。

他人から見たら頑張ってないように見える人も、本人にとっては頑張っているのだと僕は思う。

 

そこで思うのは、頑張ってもうまくいかないなら、同じことを”頑張らずに”やってみたらどうかということだ。

きっと頑張る教のもとで生きてきた人たちは試したことさえないのではないかと思う。

そんなオプションがあるなんて考えたこともない人だっているはずだ。

 

僕は5歳の時に日本に戻ってきてからずっと「浮いてるなぁ」って感じてたけど、頑張る教の教えはしっかり取り込んで生きてきた。

確かに頑張る教の教えはすごかった

努力した分の前進は間違いなくあった。

自分でも想像しなかったような結果が出たこともあった。

特に学生の時は効果てきめんだった。

 

でも社会人になってから、自分が行きたい領域の一歩手前で必ず減速するようになった。

ゴールは目の前なのに、その一歩手前で頑張れなくなるようなことが起こり続けてきた。

うまくいかなかった。

会社員だった時も、学生バスケのビデオ制作をしていた時も、アプリ開発をしていた時も。

 

関連:詳しすぎるプロフィール – こうして僕はアプリ開発者になった

 

30代後半になってアプリ開発者になり、

お金のない時代を経てゲーム制作チームを友達と作り、

それがうまくいって会社になり、

稼いだお金を全て突っ込んで2年間かけて作ったゲームが収益化できずにチーム解散となった去年の年末、

僕は頑張る教から抜けはじめた。

自分の気持ちを無視して頑張っても行きたい領域には行けないのだと思った。

その結果、

頑張らずに、自分の気持ちを確認しながら進むようになった。

周りに同調してもらえなくても、“いいねしてもらえなくても”、自分の本当の気持ちを大事にするようになった。

 

そうして気づいたのは、

頑張るという行為は「自分のためというより人のため」という側面が強い

ということだった。

本当に自分のためだったら頑張りも努力も必要ない。

はたから見たら頑張りや努力にしか見えないことでも、頑張ってるとか努力しているという感覚はない。

夢中。

自分でやっているというより、運命に背中を押されて進まされている感覚になる。

 

 

でも頑張って努力してうまくいかなかったときの僕は違った。

・親の期待に応えたい

・人に評価されたい

・すごいって言われたい

・よく頑張ったねって言われたい

そんな気持ちがあった。

恥ずかしいけど間違いなくあった。

 

「悟り」という言葉を聞いてどんな印象を持つだろうか。

偉人が苦労の末に気づいたこと。

そんな印象を持っていないだろうか。

 

でも実は悟りというものは、

「苦しみの終わり」

のことなのだそうだ。

苦しみが終わったと知ること

それが悟り。

 

僕は去年の春くらいから頑張らなくなった。

頑張る教の世界では頑張らないと評価されないことが多いし、時には非難がましいことも言われる。

それでも頑張らない。

人に非難されてもいい

人に評価されなくてもいい

そう思うようになった。

人に評価されることより、自分の本当の気持ちを大切にして生きることにした。

そうしたら圧倒的に苦しむことが少なくなった。

 

悟りとは苦しみの終わり

これを悟りの定義とするなら、

僕は悟ったのだ。

僕には頑張る教が向いていないということを。

頑張らない方が「より楽に、より自然に、より自分らしく」生きられるということを知ったのだ。

 

好きだったけど「仕事としては向いてないなぁ」と感じ続けてきたプログラマーの仕事もやめた。

5年間必死でやってきたことだったし、稼ごうと思えば稼げる能力だから、捨てるのはもったいないことだと思ったけど、無理して続けるのはやめようと思った。

そして裸足断食ブロガーになり、半年間記事を書き続けてきた。

「もうこれ以上今の生活を続けていたら僕は壊れてしまう。旅に出たい。もしそれが叶わぬなら一緒に暮らしていけないかもしれない」

そう奥さんに伝えた。

2歳の娘がいるから、もし僕が旅に出てしまったら奥さんの負担は大幅に増える。

だから全面的には賛成してもらえなかったけど、渋々ながら認めてもらえた。

そして僕は奥さんと娘を横浜に残したまま、お遍路の旅に出たり、海外フリーランス体験講座inセブに参加したりした。

今は房総半島の田舎にあるコワーキングスペースまるもという場所に行き、1ヶ月間のブログ修行をしている。

奥さんには苦労をかけている。

時々申し訳ないという気持ちも芽生えるが、そういう気持ちを持っていてもいいことは何もない。

だから「本当にありがとう」そんな気持ちを大切にしたいし、伝えていきたい。

 

ブロガーとしては全然大成してない。

それどころかスタートしてからほとんど伸びてない。

最初の1ヶ月でグーッと伸びたけど、それから4ヶ月はずーっと横ばい状態だ。

 

でもね、自分の気持ちを尊重できずに生きてきた頃よりもずーっと幸せだ。

いろんなアルバイトが続かずお金がなくて苦しんでいた20代後半よりも、アプリ開発で稼げずに悶々としてた30代後半よりもずーっと幸せだ。

 

あの頃と何が違うかっていうと、

今を生きている

ということだ。

 

うまくいかなかった過去も、お金が尽きるであろう未来も関係ない。

過去はもう過ぎ去ったことで変えられないし、未来を心配したところで前向きな気持ちになることはできない。

過去の瞬間瞬間が積み重なって今がある。

今という瞬間瞬間が積み重なって未来が形成される。

よく言われることだけど、その通りだと思う。

今が幸せじゃなきゃ未来だって幸せにならない

 

裸足の可能性を追求したい。

断食の可能性を追求したい。

瞑想の可能性を追求したい。

そして何より、

人の笑顔をたくさん見たい!

 

僕はもう頑張る教に戻るつもりはない。

どんなに頑張れ頑張れと言われても、それを自分の中に取り込むことはないと思う。

頑張る教の人たちは頑張ることが正しいと信じて疑ってないから、「頑張りません」と言ったら相手も気分悪いし、僕もめんどくさい。

だから大抵は笑顔で「頑張りまーす♪」って言う。

だけど「頑張ります」って言ったらマズい相手には「頑張ります」とは絶対に言わない。

「頑張ります」って言ったら自分が頑張ってしまいそうな相手には。

 

僕も40年間頑張る教に属していたから骨の髄まで頑張ることが染み付いてる。

今でも意識していないとつい頑張ってしまうことがある。

そして頑張ってうまくいかない自分に気づいてハッとする。

40年続けてきた習慣がそんな簡単に抜けるわけがない。

こびりつき、焦げ付いた習慣。

 

きっとそのこびりつき、焦げ付きは一生消えないと思う。

これからも僕の中にうっすら存在し続けると思う。

でもこれが僕なんだ。

頑張る教に40年間帰依してた男。

そして40歳でその宗教から抜けた男。

それが僕で変えようのない過去だし、それはそれでいいのだ。

過去が今の僕に力を与えてくれているのだから。

 

40歳で頑張る教を脱会した。

僕は40歳で0歳になった。

 

僕の第二の人生は始まったばかりだ。

 

 

いかがでしたか?

最後まで読む人ってどのくらいいるんだろう?

きっとほとんどの人はここまで到達しないで読むのをやめちゃっただろうなって想像しています。

でもそれでいい。

どんな記事も刺さる人には刺さるから。

刺さらない人に刺そうとしなくていい。

人をコントロールしようとしなくていい。

 

この記事は僕の記念すべき100本目のブログ記事。

7月半ばにはじめて半年近くかかりました。

ブログの世界では100本目がスタート地点だと言われます。

ようやくこれでスタート地点に立てた。

ブロガーとしてこれからが本番です。

 

2018年、どんな一年になるのかな?

楽しみではあるけど、先は見ない。遠くは見ない。

目先のことを大切に1年生きていこうと思います。

 

最後まで読んでくれてありがとう。

これからどんどん書いていきますよ!

 

じゃ今回はここまで。

またねっ!!




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