詳しすぎるプロフィール(学生編)- こうして僕は社会人になった




 

子供時代、学生時代を思い返してみると、一言で言えば「自分の価値観がまったくなく、いろんな出来事の中で価値観を作っていった時期」だったと思う。

もちろん社会人になってからも色んな経験の中から多くを学び、自分なりの価値観を形成していくのだけれど、器の中の空っぽ具合が全然違う。

子供の時は器の中が空っぽだから、他の人の価値観に触れた時、似たようなものがなければ、精査することなく素直に自分の器の中に入れていく。

でも社会人になってからは、同じカテゴリーの価値観が器の中にすでにあったりするので、どっちを器に入れるか考えたりする。

それが悩みを生んだりするのだけど、子供の時にはそれがない。

ただ素直に受け入れる。

しかし器に入れてみた価値観が自分の体に馴染まない

そんなことが度々あって、自分に合った価値観を取り込まないと具合が悪くなっていくことに気がつく。

今日はそんな価値観を取り込んだり、体に馴染まなかったりを繰り返した僕の子供時代から学生時代、そして社会人になるまでのことを綴ってみようと思う。

 

無邪気だった小学生時代

中学生になるまで本当に無邪気な子供だった。

いい小学校に恵まれたのだと思う。

学校の仲間達はいい人ばかりだった。

今思えば学年の人気者たちがいいヤツらばかりだったからのような気がする。

 

確かにイジメのようなこともあった。

子供だからといって、全員が心の中に闇を持っていないわけじゃない。

親の期待を背負わされたり、親が外から持ち込んでくる負の感情を家庭で受け取ったりする。

そのストレスを学校で発散する子供は少なからず存在する。

 

非常に貧しい環境で親に虐待されて育った子が1人いて、その子は今どき珍しく髪の中にシラミがいたりして、悪臭を放っていたからイジメられていたり、

東京から引っ越してきた太った男の子がいて、その子はクラスで飼っていた亀や魚をカッターで虐殺したり、どこで採ってきたのか、筆箱の中にはたくさんのヒルが入っていて、授業中ずっとそれらのヒルをカッターで切ったりしていた。高層マンションの12階から近所にいたネコを落として殺したこともあるらしい。

でもそういう暗い話はそんなに多くはなくて、全体的には仲のいい素晴らしいの学校だった。

 

目立って叩かれた中学入学時

しかし中学生になって環境が変わった。

僕は小学校に入ったとき、勉強も運動もできないどんくさい子供だったのだが、小学3年生のときに毎朝父親と走るようになってから、勉強も運動もできる子供に変わっていった。

そうして勉強ができるようになって、勉強が面白くなり、母親に塾に行きたいと言った。

勉強のできる子たちは塾に通っていることを知ったので、僕も”ジュク”に行ってみたいと思ったのだ。

しかし公文に行きたいとは言わなかった。というか言えなかった。

みんなが公文という”ジュク”に行っていたことを知るのはだいぶ後になってからのことだ。

 

結果、母親は超スパルタで有名な進学塾を選び、僕はそこに通うことになった。

みんなの行っているジュクではないけど、ジュクはジュクだろう。

成績が上がればそれでいいやと思ったので、なにも抵抗することなく通うことにした。

 

今思えば宿題をやってこなかった子供を、「ケツピン」と呼ばれる鉄パイプにガムテープを巻いたロングホーンで生徒のケツをたたくというとんでもないことをしていた塾だったが、入試に合格するという目標にひたすら向かって行く感覚は面白く、学校での成績も飛び抜けてよくなるので勉強のストレスはあったけど悪くない経験だった。

そうして僕は2年間勉強して目標としていた中学校に進学した。

 

嬉しかった。

僕が長い努力が報われると知った初めての経験だった。

(今思えばこれが大人になるまで続く「努力をひたすら続ける」という悪習を生んだのだけど)

 

合格発表のとき、自分の番号があったのが嬉しくて大声を出して飛び上がったらしく、そのあと入学書類をもらいに行く時、入り口にいたおじさんに「あんなに喜んでいる子は初めて見たよ」と言われたのを覚えている。

 

小学生時代、勉強ができた僕は「これ分かるひと」という先生の問いに1番に手を挙げて答える子だった。

「はい!」

このことに関して疎まれることはほとんどなかった。

成績の良い僕を異常にえこひいきする先生がひとりいて、その先生の影響で別の進学塾に通っている同級生にちょっとした嫌がらせを受けたことがあるけど、基本的にほかの子たちは気にしていないようだった。

 

しかし中学入学後も同じスタイルで手を挙げまくっていたら、クラスの片隅にが生まれた。

「アイツ、ウザくね?」

ある一人がそう言いだし、周りを同調させ始め、それに賛同する人たちが現れた。

圧力を感じるようになってきたので僕は手を挙げることはできなくなった。

 

軽いイジメにあった中学・高校時代

実は中学生時代のクラス内での記憶はその辺からあまりない

中学時代で覚えているのは林間学校でやったサッカーでオーバーヘッドキックをして着地時に腕を骨折して、1ヶ月バレーボール部を離れたのちに戻ったらイジメられ始めたこと。

バレーボール部は1年でやめ、好きになっていた歴史を学ぶべく歴史研究部に入ったが、悪い友達ができて、そいつと一緒にちょっと風変わりな先輩をイジメて遊んでいたら退部させられたこと。

そこころ背が伸びてきたので、バスケ部に誘われ入ったが中3から途中で入ったので、バスケの基礎があまりにも分からない。

バスケ自体は面白いし大好きだったのだが一向に上手くならず、先輩からも同級生からも後輩からもバカにされてばかりだったこと。

 

こういった経験を通して僕は何が正しいのか分からなくなった

明るく生きることがいいことだと思っていたのに、それがいいことなのか分からなくなった。

 

明るさを取り戻した大学時代

僕が入学した中学は大学までの一貫校で、受験をすることなく、そのまま大学に進んだ。

大学の入学式にはひとりで行った。

高校で一緒だった同級生たちは群をなして入学式に参加していたが、僕はそんな気になれなかった。

 

今までの人間関係はリセットして新たな気持ちで大学時代をスタートしたかった。

 

この方針は正解だった。

 

大学では地方から色んな人たちが集まる。

東京しか知らなかった僕のちっぽけな世界は急に大きく広がった。

チャラチャラした飲みサークルに入り、毎日楽しく過ごした。

周りの友人たちも先輩たちも気持ちのいい人たちばかりで、僕はのびのびと過ごした。

 

闇ふたたび – サークル

大学2年になるとサークルの後輩ができた。

しかし、後輩たちは僕らの一つ上の先輩たちには懐くものの、3人しかいない僕らの学年には嫌悪感を示していた。

中学入学時に疎まれた時と同じように、後輩の中に中心となる人物がいて、そいつが空気を作り、周りがそれに同調するという流れだった。

再び人間関係が面白くなくなったので、サークルとも疎遠になった。

 

サークルが面白くなくなったので、「遊び呆けていてもしかたないな」と思って勉強を頑張ることにした。

経済学部にいたのだが、たまたま履修した国際経済学の先生の情熱的な講義に魅了された。

言っていることはチンプンカンプンだがこの人の元で学びたい。

もっと一緒の時間を共有したい。

そう思い、その先生のゼミに入った。

 

変人の集まり – ゼミ

その先生のゼミは勉強が大変なことで知られており、ラクに楽しくゼミを過ごしたい多くの大学生にとっては不人気のゼミだった。

そんな不人気ゼミだったから、入ゼミ希望者は変人ばかりだった。

そんな変人の集まりだったが、僕はそんな変人の集まりが好きだった。

というか居心地がよかった。

 

変人ばかりだから意見の衝突がたびたび起こる。

変人だから結局仲直りするということもない。

和があるわけでもない。

しかし不思議と絶妙なバランスで形が保たれていた。

 

ゼミ長となった男がとてもいいヤツだった。

モメる僕らの間に入って一生懸命話を聞いてくれる。

彼が中心にいたから絶妙なバランスが保たれていた。

 

僕は学生時代の友達で今でも付き合いのある人はその彼しかいない

今は会う機会はあまりないけれど、心のどこかでいつも繋がってる

彼こそが真の友人というものなのだろうと思う。

親友は1人だけいればいい

多い方がいいとは思うけど、どうでもいい友達はいらない

その方が今を生きられるし、前を向いていられる。

 

就職活動

大学3年の終わりになって就職活動説明会というものが大学の構内で開かれた。

就職課というものがあって、そこのおじさんが「これから就職活動をするにあたって」という話をし、その後有名企業に入ったOBが話をする。

 

ある日、クラスのみんながどこかにぞろぞろ向かおうとするので、「どこ行くの?」と聞くと、「今日は就職活動説明会の日だよ」と言う。

 

「就職活動説明会?」

 

今思うと不思議でならないのだが、僕は大学卒業後にも人生が続くということを考えたことがなかった

将来何を仕事にするなんてもちろん考えたことがなかったし、自分がどんな人間になりたいという考えもないし、やりたいということが一切なかった

 

ただその時を流れに任せて生きていた。

 

とはいえ今まで考えたこともない就職というものがやってきて、単純に面白そうだったのでみんなについて行くことにした。

 

就職活動説明会は面白かった。

「僕は会社に入って仕事をするらしい」と知った。

 

僕の親父は仕事が大好きな人だった。

海外に工場の拠点を作るという仕事をしていたんだけど、たいてい単身赴任で数年海外に行ってきては、海外のお土産話を聞かせてくれる。

僕はそういう話を聞いていたのでざっくりと「仕事は楽しいもの」という観念を持っていた。

そのチャンスがどうやら僕にも回ってきたらしい。

 

OBの話も面白かった。

どんな会社の人たちがいたかよく覚えてないけど、三菱商事に入った人の話が面白かった。

興奮した。社会に出たくてうずうずした。

世の中にどんな会社があるのかよく分からないので、「商社に行こう」と決めた。

 

商社というのは当時かなり人気のある就職先で、商社を目指す人たちの集まりがあった。

商社会。

どういう流れで誘われたのか覚えてないけど、僕はそのグループに顔を出すようになった。

 

めちゃくちゃ面白かった。

超個性的な人たちの集まり。

学生としてのキャリアはピカイチな人たちばかり。

チャレンジ精神旺盛な人たちばかりでその人たちと飲むのが楽しくなった。

 

なんでもやれる!

 

そうして僕の就職活動がはじまった。

 

とりあえずOB訪問をして、気に入ってもらえると人事に有利に計らってくれるらしいということを知ったので、とりあえずOB訪問した。

しかし仕事の合間に会うOBたちはイケてなかった

さっぱりピンとこない。

 

「商社って楽しく働ける場所じゃないのかも?」

そう思って商社を目指すのはあっさりやめた。

 

その後どうしたものかなぁと思っていたら、ゼミの先生が「君たち、ベンチャーを目指せ!」と言っていたのを思い出した。

聞いた時は「ベンチャーってなんだ?」と思っていたが、就職活動を通して知っている単語の数が増えていたので、ベンチャーとはベンチャー企業のことであるということが分かるようになっていた。

とりあえずよく分からんので当時有名だったベンチャー企業で有名な会社の説明会に行ってみた。

TSUTAYAを運営しているCCCという会社やソフトバンクといった会社だ。

 

めちゃくちゃ面白かった。

コレだ!と思った。

でも「こんなでっかい会社じゃ競争ばかり激しくてすんなり入れそうにないな」と思ったので、もうちょっと規模感の小さいところを探した。

そこで見つけたのがプラザクリエイトという会社だった。

その年にジャスダックに上場を果たしたばかり。

写真のスピード現像ショップを全国に展開している会社だった。

 

CCCやソフトバンクのような巨大な会場ではなく、オフィスビルのそんなに大きくないイベントスペースで説明会が行われた。

会社紹介の動画を見て、人事の人の説明を聞いているうちに「ここだ」と思った。

 

説明会からの帰り道、水道橋の駅のホームで僕はずっと立っていた。

 

電車がホームに何回も停車したが、僕はずっと立ち尽くしていた。

 

ただただドキドキしていたのだ。

 

鳥肌が立って動けなかった。

 

しばらくして落ち着いてきて、こう思った。

「ここ以外は行かない」

この一社だけにエントリーしてそれまで集めた資料は全部捨てた。

 

面接が始まった。

確か3回くらいあった気がする。

すべての面接に同じスタンスで臨んだ。

 

「何にもできませんが、できることはなんでもやります」

 

それだけを連呼した。

面接テクニックなんて何も使わなかった。というか知らなかった。

 

トントンと面接は進み、内定した。

大学4年になったばかりの4月、

 

僕はこうして社会人になった。

 

おまけ

これが僕の子供時代から社会人になるまでのいきさつです。

平凡な人生だと思っていましたが、こうして書いてみると平凡な人生にもドラマがあったんですね。

 

内定が4月に決まってしまった僕はヒマを持て余しました。

同級生はみんな就職活動に忙しかったからです。

 

そんなヒマを持て余していたある日、ヒマを解消するアイデアを思いつきました。

「そうだ!バイクを買おう!」

高校の時から帰り道にいつも停めてあったスティードというホンダのアメリカンバイクにずっと魅せらせ続けていたのです。

しかし「バイクに乗る」なんて親に言ったら猛烈な反対にあうのは目に見えていました。

なので、バイクに乗るではなく、バイクを買う!ということが先に来たのです。

「免許を取る前にバイクを買っちゃおう!」

 

50万円ほどあれば買えそうだということが分かったので、短期間でお金を稼げるバイトを探しました。

光通信という当時イケイケだったベンチャー企業のバイトを見つけました。

国際電話の利用の多い人に電話をかけてアポを取り、KDD(今はKDDI。当時はKDDだった)の0061というサービスに入ってもらう、そんなバイトでした。

 

とりあえずアポイントを取らなきゃ始まらない。

 

会社には国際電話利用の多い人のリストがあって、そこに片っ端から電話をかけまくります。

電話をかけた先の人たちはたいていNTTの001というサービスに入っていて、それとほぼ全く同じサービスを売り込むのです。

かなり難しかったです。

だってお客さんには全然メリットがないんだもの。

いちおう「加入してくれたらこんなプレゼントをするよ」というお土産はあるんですが、それも大したものじゃない。

今は国際電話ってネットでタダでもかけられるけど、当時は国際電話ってめちゃくちゃ高かった

だから国際電話をたくさん使う人って当時はお金持ちの人が多かったですからね。小銭になんか興味ない。

だから僕は電話では全くアポイントが取れなくて、アポイント専門の人がとったアポ先へ訪問して契約を取ってくるということがメインの仕事になりました。

 

これがとんでもなく面白かった。

いろんな人たちの家にお邪魔して、話を聞かせてもらう。

小さなマンションの一室にイラン人が8人くらいで暮らしていたり、東京の都心の一等地でとんでもなく広いマンションに住んでいる人たちの家にお邪魔したり。

ひと部屋が学校の教室2部屋分くらいあったりするんですよ。

そこには巨大な彫刻が中央に置かれていたりする。

そんな家ではただの訪問者である僕を大切なお客様のように扱ってくれたりするんです。

あれが僕が初めて心の豊かさというもののリアルな実態を知った初めての経験だった気がします。

 

世の中にはこんなに心の豊かな人たちが存在するんだ。

 

実際に見たことがあるという状態は、知っているという状態の間には天と地ほどの差があると思います。

会社を辞めてからホテルでパーティウエイターのバイトしていた時に、APECの国際会議にウエイターとして派遣された時や(オバマ大統領も来ていました)、外務省の施設で給仕をした時、映画のプレミア試写会のパーティに派遣された時などにたくさんの有名人に食事をサービスして来ましたが、その時も似たような思いを持ちました。

そういう超有名人の中には驚くほど腰が低く、ステータスの低い僕のような人間を大切にする姿勢の人がいる!

逆に超有名人ゆえにとんでもなく心の狭い人たちも見ました。自分のプライドの保持が全て

 

テレビの画面というフィルター越しでは何も伝わらないのだなと思いました。

実態の100分の1も伝わらない。

 

学生時代の最後にめちゃくちゃいい経験をしましたね。

 

結局2ヶ月半で目標としていた50万円が稼げたので、国際電話のバイトはやめてすぐにバイクを買いました。

バイクが届いた日の親の驚きようと言ったらなかったですね。

絶句してました。

ボーゼン

 

買っちゃったならどうしようもない。

 

そうして僕は意気揚々と教習所に通い、バイクに乗るようになりました。

 

学校に行くまでの道をバイクで行くという、自由な感覚がたまらなかった。

電車とは全然違った。

 

バイクはフリーダムです。

危険がともなうからこそその分生きている実感を感じられる。

お金がなくて苦しんでた時に手放しちゃいましたけど、改造したりツーリングしたりした大学生最後の日々は今ではいい思い出です。

今アメリカではe-bikeという名前で電動補助付き自転車のオバケみたいな奴が生まれています。

https://www.youtube.com/watch?v=b-YyKy8WWmo

 

こいつに日本でも乗れるようになったらまたバイクに乗りたいなと思っています。

Bike is Freedom!!

 

 

いい加減長くなったので、この記事はこの辺で終わりにしたいと思います。

 

みなさんの学生時代はどんなものでしたか?

よかったらそのうち聞かせてください。

 

長い文を読んで下さってありがとうございました。m(_ _)m




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