自分を弱い人間だと思う必要はない

昨日はバカ食いした。

昼ごはんにカレーを食い、夕方にもカレーを食い、それでも満たされず夜には坦々麺を食べた。

カレーの魔力は凄まじい。

おとといから疲れが出ていた。

体がバキバキ。

年末から運動しようと思って、ブログや似顔絵描き、プログラミングといった作業の合間にバーベルをあげたり、朝にはランニングをしたり、週末にはバスケをしたりするようになったから、体が硬くなっていたらしい。

昨日はようやく風が収まったので東京湾フェリーが動いていた。

横須賀と金谷を結ぶ船。

本当は3日前に横浜に戻るはずだったんだけど、2日間も強風が続いたせいでフェリーは欠航していて帰れなかった。

娘に会いたかった。

自宅に帰ってから眠くて仕方がなかった。

疲れがどっと出ていて、目の下にクマが出ているような感じがした。

(実際に出てないのだけど)

娘と2時間ほど公園で遊んで、帰ってから死んだように寝てた。

(話は脱線しちゃうんだけど、娘の脅威的な寒さ耐性にびっくりした。昨日はこの冬一番の寒気が入っていたのに、2時間も砂場で水遊びしていた。水遊びだよ??何度も公園の水道に行っては水を汲み、手を洗い、足を洗う。まだ2才だから服を水で濡らさないようにするテクニックがない。しまいには服がびしょびしょになったのでジャンパーを脱がせたけどケロッとしている。さらに自分で「裸足になる〜」と言い出し、靴も靴下も脱いでしまった。濡れないように袖は腕まくりして、ズボンもまくりあげた。完全に春秋ファッション。これを見ていて思ったんだけど、子供の温度感覚を大人の感覚で判断してはいけないなって思った。過保護にぐるぐる巻きにされた子供をよく見るけど、もしかしたら子供にとってはいい迷惑なのかもしれない)

話を戻します。

そう、僕は疲れが出ていて眠りまくってた。

何度も「パパ起きて!」って娘にアタックを食らった。

「わかった、起きるよ」

と言って起きようと思うのだけど、体が重くて起きれない。

見かねた奥さんが1時間ほどマッサージをしてくれた。

奥さんは元マッサージ師で整体師、とても上手にほぐしてくれた。

ほんのちょっと押されただけで痛かった。

特に下半身が。

上半身もバキバキだった。

ガッチガチに固まってた。

1時間揉みほぐしてもらってようやく体が楽になった。

というか動けるようになった。

奥さんは買い物に行き、僕と娘はお留守番。

「ママと一緒に買い物に行く?」と奥さんは聞いたのだけど、

「パパと一緒にここにいる」と娘。

1週間に1日半しか家にいないパパ。

彼女にとって、パパといられる時間は貴重らしい。

いじらしい姿に申し訳ないと思った。

僕だったら可能なら一緒にいたい。

でも生産的な気持ちでいられる時間も欲しいんだ。

留守番している間、娘は以前プレゼントしたKindle Fireで絵本を読み続けていた。

由紀さおりさんが読み上げしてくれるデジタル絵本。

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ソファの横で一生懸命絵本を読んでいる娘の温度を感じながら、僕は座ったまま眠り続けていた。

疲れを取りたいなら食べなければいい。

疲労の半分は食べ物を消化するときに発生し、3割は脳みそ、2割は筋肉と言われる。

筋肉の疲労はわずか2割だ。

食べなければ老廃物や有害物質は小便・大便と共にからだの外へ排出される。

昨日は強烈に疲れを感じていた。

理性がちゃんと働いているのなら、食べないと決断し、疲労を抜こうとすることができるはず。

なのにそれはできなかった。

むしろ食べたかった。

疲れすぎると食べたくなる。

これが万人に共通の心理なのかはわからないけど、僕はそう感じることがある。

食べるだけでなく、飲みたくもなる。

疲れたから飲みたい、そう思うことがある。

千葉でシェアハウス暮らしをするようになって、夜一人で酒を飲むようになった。

一日の疲れを癒してくれるような感覚があったから。

でも、朝の目覚めは良くない。

酒のせいだとすぐ分かる。

それなのに、少量とはいえワインやビールをチビチビ飲んでいた。

酒を飲みながらシェアハウスの仲間としゃべったり、音楽を聞きながら本を読む時間は心を安らかにしてくれた。

一時的な幸福とその代わりに後でやってくる倦怠感。

どちらを重視したらいいのだろう?

普通に考えれば、一時的な幸福感よりも長時間続く壮健な気持ちを重視すべきだと思う。

理性ではわかっているのに、感情が思い通りにしてくれない。

ついつい食べちゃうし、ついつい飲んじゃう。

そして後になって「やめておけばよかった」と思う。

そんな自分を見て、「弱いなぁ」って思う。

他の人のことはよくわからない。

人がどう思っているか予想がつくこともあるし、本人が話してくれて分かることもあるけど、そういったプロセスで知ることができるのは人間のほんの一面でしかないと思う。

だって、ほとんどの時間はその人とは過ごしてないし、一緒に過ごしていないときに素の自分になってるし、何より自分でも気づかない自分の一面に驚くことが日々起こっているんだもん。

「私のこと分かったような気にならないで!」

ってシーンがドラマとかであるけど、ほんとそうだと思う。

人をわかった気になったら危険だ。

まぁ間違いなく勘違いだ。

「人のほんの一面が分かった」と思ったなら健全だろうと思う。

もし自分が「この人はこういう人だ」って判断していたら危険な状態だなって思う。

そもそも人は変わり続ける。

一瞬を捉えて性格の一面を見たとしても、その性格はどんどん変わっていく。

うまく捉えることができたとしても、ずっとその性格が続くわけじゃない。

「今この瞬間はこの人はこういう性格なんだ」

が正しい判断だと思う。

僕は昨日おとといと食欲がコントロールできなかった。

僕の弱い一面が出た。

じゃ僕は弱い人間なんだろうか?

確かに弱い一面はある。

だけど、自分では案外強い一面もあると思っている。

弱さが前に出ることもあれば、強さが前に出ることもある。

弱さと強さ、両方を持っているのだ。

これは誰でもそうなのではないかと思う。

弱さもあり、強さもある。

だから「自分は弱い人間だ」と決めつける必要はない。

「今は弱い一面が出てるけど、強い一面もあるんだ」と考え、

「さて、そろそろ強い一面も出していくか」と思って切り替えていけばいい。

完璧主義はツラい。

弱さを見せられないのはツラい。

完璧であろうと思うことは問題じゃないけど、そこに柔軟性がないとカッチカチの心になっちゃって自分を痛めつけてしまう。

もっと楽に生きよう。

人のために生きてるんじゃない。

人に何か宣言したからと言って、貫き通す義務があるわけじゃない。

人に宣言するのはあくまで手段だ。

便利だから使う。

道具でしかない。

道具に飼い慣らされちゃダメだ。

いや、そんなことないな。

道具に飼い慣らされる時間も大切かもしれない。

道具に飼い慣らされたらどんな思いになるのか学ぶには、道具に飼い慣らされるしか手はないのだから。

無駄な経験などない。

ダメな時間などない。

ダメならダメでいいじゃないか。

結局前回の記事と同じ結論になってしまった。

ダメなおっさんだなぁ、俺。

でもそんな自分が大好きだ。

ダメなおっさんでいい。

別にそれで構わない。



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